第3話/洗濯はメイドにおまかせ!
俺はこの社会で生きていてはいけない人間。なんとなくそう思う。死ぬ勇気はない。
強烈なトラウマはない。悲嘆に暮れたことも歓喜に打ち震えたこともない。それなりの喜怒哀楽を平均的に取得しながら17年間を生き、結果として派遣労働で日銭を稼ぐような人生を送っている。両親から暴力を受けたこともなければ生活に不自由したこともない。高校を辞め親元を離れようという時も両親は俺を引き止めることなく、「困ったことがあったら連絡してね」の一言で送り出してくれた。それから半年、一回も連絡はない。
いつだったか気付いたのだ。俺は曖昧模糊とした「社会」という不確かな空間の中で、成長や達成をこなしながら生き続けていくことができない。できないとわかったからには社会で生きていてはいけない。社会が求める対価を俺は払えない。何もできない者が社会に関わろうとした所で誰かに迷惑をかけるだけ。だから人間としての活動を最小限に生きる。日雇いで日銭だけを稼いで、ガスも流れない家の中で静かに、植物のように無の時間を過ごす。それだけが安心。この世界のいちばん外側にいたい。
多様な豊かさを諦めた代わりに、他者から達成と成長を求められない人生。俺はそれが欲しい。
自分でも甘えた人間だとは思うが、俺はただ自分に最適な人生を求めているだけだし、誰の自由も阻んでいない。だから許されたっていいはずだ。
× × ×
俺の家にツルヨが住むようになって数週間が過ぎる。
共同生活を送る上でのルールというような小さな社会が発生するかと思われたが、ツルヨは「いいのいいの。私は人間じゃないから気にしないで〜」と言いながら何でもやってくれる。だから何も気にしないことにした。
朝起きてツルヨの舌肉を一枚食って日雇いに向かい、家に帰ればカップ麺とツルヨの舌肉を食べる。ツルヨが掃除した部屋で眠り、そして起きる。ツルヨから出るお湯で風呂にもたまに入るようになる。
ツルヨは家から出る様子がないので「家の外でやりたいこととかないの?」なんて聞いてみるけどツルヨは「ジロウ様が行きたいところに行きたいな〜」と笑うばかり。俺には行きたいところはないので結局どこにも行かない。
「私は毎日ジロウ様がご飯が食べられたら、それだけでいいよ」
彼女と生きるということ。それは俺みたいな人間が手にしてはいけない豊さだと思う。だけど彼女を拒絶する勇気もない。
日雇いに行かない日は昼間から二人で布団に入ったまま、窓の外の空を見上げた。
カーテンの隙間から覗く青空では雲が社会と違う速度で押し流されていて、二人で何を言うともなくそれを眺めた。
俺はこんな時間を受け入れるツルヨの空虚さが怖い。俺が隣にいるだけで笑顔になる、そんな彼女の存在が理解できない。
休日の夜、ツルヨがあることに気付く。
「あ、洗剤ない。買いに行ってくるよ」
「そんなの買わなくていいのに」
「いえいえ。ジロウ様からお金を頂いてるのはそのためですから」
「好きなもの買ったりしてほしいから渡したんだけどな」
ツルヨは身分証のたぐいを持っていないし、恐らく戸籍もないので働く事が出来ない。だから金を渡してあるのだが、ツルヨはそれを洗剤や掃除用具の購入に使っていた。部屋の掃除・洗濯・風呂の用意といった全てをツルヨが担当していて、俺は仕事に行って寝るだけの生活をしている。
ちなみにツルヨがこの家に来るまで風呂を洗ったことは一度もなかったし、服は洗濯せずに着ていた。洗濯機がないからツルヨはいつも服を手洗いしている。
「じゃあ一緒に買いに行こうか」
自分で言ってから一緒に行く必要までは無いと気付く。ツルヨなら一人で行ってくれるだろう。けれどツルヨは弾けるような笑顔で「うん! 一緒だね!」と俺の手を取った。
初めて二人で外に出る。
四月ももうすぐ終わりという夜の空気は心地よい温かさに包まれていた。俺たちは歩いて十分ほどのドラッグストアを目指す。最低限の日用品を買うために利用している場所だ。
暗い夜道には俺たちの不揃いな足音だけが響く。
隣を歩く彼女の表情にはそんな人生への苦しみや苛立ちなど感じられない。
俺は少しだけ歩みを遅め、ツルヨを見る。
「ツルヨにとっての幸せって、なに?」
「ジロウ様と一緒にいて、ジロウ様が幸せであることだよ」
その言葉には少しの淀みや迷いも感じられない。
「確かに私、普通の女の子とは違うかもね。でもきっとそういう仕組みなんだよ。私にはジロウ様以外には何もない。そういう自分の空っぽさを自覚するとね、私の全部がジロウ様のためにある感じがして、もっと幸せな気持ちになるの。そういう女の子、イヤ?」
ツルヨの不安げな表情。俺に拒絶されることを本気で恐れている。
「嫌なんかじゃないよ」
本当は「俺もツルヨのことが好きだよ」と言うべきだったかもしれない。
「よかったあ〜ジロウ様に嫌われたら、私何もなくなっちゃうよ〜」
呑気な口ぶりに反して言葉は切実だ。
道の先にぼんやり明るいドラッグストアが見えてきた。俺は会話が終わることに安堵しながらそこへ入っていく。
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