第8話 あまりもの令嬢は残念王子に求婚される
「ええと、はい。あの……お茶は何を?」
「アイリス嬢の好きなものを」
「では今日は、濃いめのミルクティーをお淹れしますね」
私は鍋にお湯を沸かし、ぬるめの温度でゆっくり抽出した紅茶にミルクとお砂糖をたっぷり入れました。
デザート代わりです。
すぐ飲めるようにとミルクで温度を下げた紅茶を、私がそんな必要もないのに時間をかけて飲む間、メイソン殿下は特に口を開かれることもありませんでした。
殿下はティーカップに一度口を付けたきりで、私が二杯目の紅茶を自分のカップに注いでも、視線を彷徨わせていました。
「殿下、あの、お話があったのでは? お茶、温め直しましょうか。それとも……」
言いかけた時、殿下はごくりと喉を鳴らして伺うように目を合わせ、呟かれるように話されます。
「ヘイデンと何を話していたんだ」
「ご覧になっていたのですね。それは、そのですね……」
どう答えても殿下を困らせる気がしました。
声を掛けられたのも軽率かもしれませんが、殿下はすぐに動けなかったことを後悔されてしまいそうです。
特に、お兄様の話は、今してはいけない気がします。
「……まだ申し上げられません。王都へ帰られたら、お話しします。ただ、誓ってやましいことはしていません」
「貴女がそう言うなら、それが最善なのだろう。だが……」
殿下は膝に乗せたこぶしを固く握り締められました。
「俺は知りたい。……もしまたあいつが君を妻に迎えたいと言って、君が了承したのなら俺に止める権利はないと思う。婚約解消の手紙を送り付けた以上、ボールは君にあるから」
そういえば殿下の素の一人称は俺だったのだな、と、昼間のことを思い出します。
「……確かに、お誘いは受けましたけれど、本気とも思えませんでした」
「本気だったらどうする? あいつは元々兄の部下で、ここには多分お目付け役か何かで来たはずだ。俺よりも出世の目はある」
……殿下もあの方がお兄様の部下であることは把握済みだった、ということなのでしょうか。
どうすれば殿下を傷つけずに済むのか考えながら、私はいつもよりゆっくり言葉を選びます。
「まず私は、殿下がここで成果を挙げられると……つまり、立派にお城を修理なさると信じています。
出世がいいかどうかも、人それぞれです。私は殿下が殿下の好きなお仕事を、好きな距離感でされているのが、一番だと思います。
たとえば私は薬を作るのが好きですが、薬品会社を経営したいとか思ったことはありません」
私は殿下と視線を合わせたくて少し体を前のめりにします。
「それにどんどん出世して、それ目当ての他のご令嬢が殿下に近づいたら、私にとっては会話のチャンスすらなくなってしまうかもしれません。ずるいですけど」
「……アイリス嬢は存外ものをあけすけに言う人のようだ」
殿下の頬が少し赤くなりかけましたが、すぐに後悔されたように目を伏せられました。
「やはり、恐ろしい
俺は君がこの城まで追いかけてきてくれたと知って、好意を抱いてくれたと知って嬉しかった。と同時に途方もなく怖くなってしまった」
「やっぱりここまで追いかけて来たの、怖いでしょうか。引かれても仕方ないとは思ってたのですが……」
「そうじゃない。
……もし婚約を続け君が王都で長い間一人になるとする。そうなればきっと俺の優しい兄弟が何度も君に構いに来るだろう。
お茶をし、王宮や俺の近況を持ってきたり、退屈させないように観劇に誘ったり――俺には到底できそうにないことも。
そうなれば、ずっと放っている俺よりも兄弟の方を、好きになると思った。
俺が君を好きになってしまえば、それに耐えられる気がしなかった」
殿下はそれから、絞り出されるように小さな声で。
「……人を好きになるたびにあんな姿を見せられるのはもう嫌だ」
メイソン殿下には、とても勇気の必要な告白だったのでしょう。
私が一度立ち上がると、殿下の拳が少し震えるのが見えました。私はそのまま机から書きかけの便せんを取り上げると、差し出します。
「今日殿下へお渡しするつもりだった手紙です。……書きかけですけど」
以前は一度逃げてしまったので、今度はちゃんと書きました。
受け取られて目を通される殿下を私は見つめます。目の前で手紙を読まれるのは、想定外で、恥ずかしいですけども。
便箋にはこう書いてありました。
『殿下は怖ろしいとお思いかもしれませんが、グリフォンに追われる私を足手まといにもかかわらず連れて逃げていただいたこと、一生の思い出にいたします。
殿下があのような事態にあっても冷静に対応し指示するお姿に――』
「――そう、ならないと思いますよ」
殿下のご兄弟を好きになるなんてことはないです。
「君は俺を美化している。俺は自分で勇気があるとか、前線で指揮を執れる能力があると思ったことはない。
どちらかといえば、ちっぽけなプライドで損害を出すより、能力がある奴を信用して任せられるのが俺の能力だと思ってる。地味だろ」
「ちゃんと指揮を執られてましたよ」
「……あの時はただ……必死だったし、君の目に見えてる俺ならきっとそうするんだろうと思ったから。残念王子でも期待されるのも悪くないって」
私は珍しく、怒った顔を作ります。
「そう思ってくださるのは、嬉しいです。でも誰が言っても、ご自身で残念王子だなんて、そんなこと仰らないでください。私、私は――」
「解ってるよ。他の奴らに残念って言われようが、君には失望されたくないって思ってしまった」
――あれ?
私は目を瞬きました。
「話が繋がってましたっけ? 殿下、それは気の迷いですよ……今日はお仕事にグリフォンに宴会に、お疲れでしょう。できれば早く、お休みいただけた、ら……?」
背中に温かい感触が触れて、私の身体がローテーブル越しに傾ぎます。
抱き寄せられて殿下の胸に顔が押し付けられたので、自然と言葉が途切れてしまいます。
……暖かくて、鼓動が早くて、……嗅いだことのない男性の匂いがしました。そう思うと耳まで熱くなってしまいます。
いえ、そうではなくて、何が起きて――。
「さっきから俺のことばかりだ。……傷ついた目をしてるくせに、何でもない顔をするな」
「それは気付きませんでした」
平静を装えてたつもりだったのですが。
「何があったか、話してもらえないか」
「いえ、その、あえて言うなら……ただ、殿下が、私のことを恐ろしいと……嫌われるようなことをしたかと思いまして」
押し付けられているせいでもごもごと言えば、殿下の胸元で自分の吐息が暖かくこもっていました。
「……済まない、あれは恐怖という意味で言ったんじゃない。……俺には自分一人では、人に後ろ指を差される可能性があるのに、あんな風に駐留の騎士たちの前でグリフォンを仕留めて焼くような提案をする、そんな覚悟がなかったことに気付いてしまっただけだ。
それだけの覚悟ができる女性だったんだな、と」
「……そんなこと。だって皆さんここでの生活が、役割が、人目があります。……私はここで異物だからできたことです。王宮でできたかどうか」
近く耳元で聞く声は嬉しいのですが、流石に急激な供給過多で、私の気力は限界に達しようとしていました。
離れようと胸を押しましたが、びくともしません。
「本当にそれだけか」
「え」
「……ほんの少しでも俺のためだと思ってくれたのなら――申し訳ない、が、嬉しいと思ってしまった」
「殿下……ええと、殿下がここでお仕事しやすくなればとは思いました」
そう答えれば少し体が離れて、目が合いました。決して派手ではないですが、褐色の瞳はとても落ち着きます。
やっと解放されるかと思えば殿下は私の髪を少し掬い上げて、
「少し焦げている」
「……切ればいいだけですよ」
「ここではろくな手入れもできないだろう」
「また生えてくる髪なんかよりも、殿下が……メイソン様がご無事なことの方が大事です」
メイソン殿下が思っているよりも、ご自身には価値があるのに。王族とか立場とかじゃなく、仕事が好きであるとか、雑用も厭わず引き受けるとか、こんな私に優しくしてくれるとか。
そう思って、微笑めば。
殿下の瞳の色が変わったような気がしました。
「……まだ、間に合うか」
「え?」
「……婚約は解消しない」
「えっ?」
「驚くな、解消の撤回を求めて来たんだろ」
「それは、そうなんですけど」
殿下は婚約解消するつもりだと仰ってましたし、
「まだ、少しは好きでいてもらえるだろうか。……ああいや、俺は人に好かれるとか、嫌われるとかどうこうの前に――ちゃんと好意を伝えることもできていなかったんだな」
殿下は私の肩を支えて立たせると、ご自身は私の座っていたソファの横に立たれます。何か、空気がピリピリとしてしかもどこか甘いのですが。
そして殿下は跪き、私の手を恭しく取って、甲に口づけました。
「改めて申し込みます。ミス・アイリス・オースティン、貴女に私の忠誠と愛を捧げます。どうか妻になっていだたけませんか」
まるで乞われるように上目遣いをされる殿下。
もう正真正銘の王子様です。
沈黙は駄目だと思いますが、咄嗟に声など出せません。婚約解消の撤回は望みでしたが、これは全くの想定外です。
真摯な瞳が私だけを見ているのかと思うと、何だかふわふわしてきました。
そもそも、こんなことがあっていいのかなんてぼんやりした頭で考えますが、言葉がうまく出てきません。
でも、このまま黙っていて撤回されては困るなという気持ちの方が大きくて、唇を必死に動かしました。
そう、たった一言。二文字だけでいいのです。
「……はい」
力いっぱい答えたはずなのに、か細い声しか出ず――そして私は力が抜けてソファに座り込んでしまいます。
熱に浮かされたように熱い頬を抑えていると、殿下はふと微笑まれると、何故か余裕の表情で隣にお座りになられました。肩が触れて……近いです。
「良かった。では次の策だ。君がまかり間違って他の男に取られないように、式の準備を進めよう。休みももぎ取る。結婚式と蜜月くらい留守にしたって誰も文句は言わないだろう――いや、言わせない。
こういう時のために、嗜好品で王都の各部署に恩を売っておいたんだ」
「……はい。ええと、待ってますから。王都に帰られるまで何年だって、お手紙を書きます」
つたない言葉でしか伝えられない自分がもどかしく、せめてと瞳を見つめれば、そこには初めて見た殿下の決意の片鱗のような、熱っぽさが揺蕩っていました。
「……結局のところ、俺は王都に、近くにいたって君の自由な心は縛れないだろう。
でもそれでも、……飽きるまででいい。側にいてくれないか」
物理的な距離ではないことは解っていましたが、殿下の美しい手が私の手を取られましたので。
私はきゅっと握り返しながら、小さく頷きます。
……それしか、できませんでした。手に力を込めた瞬間、また抱きすくめられてしまったので。
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