第7話 あまりもの令嬢は婚約者に嫌われたくない

 フードを咄嗟にかぶった私は、メイソン殿下に覆い被さりました。

 背中から後頭部まで炙られたようにかあっと熱くなりますが、幸いグリフォンの口から放たれた炎の一撃はマントを焦がすにとどまります。

 とはいえ、半分近く炭化してしまいました。薬師用とはいえ、一応魔術師団仕様の高級品なのですが。

 ……そもそも普通のグリフォンは炎を吐いたりしないと思うのですが、変異種か固有種でしょうか。


「無茶をするな!」


 私に半ば組み敷かれながら、眼下で殿下が叱責、いえ焦られたようで心配してくださいました。


「非礼はご容赦ください」


 私が自身の体を起こすより早く、殿下は私を下から抱えるようにして立ち上がり、私の手を取りました。


「逃げるぞ」


 旋回して急降下してくるグリフォンの、風圧を背中に感じます。あの鉤爪で背中を裂かれたら、なんて考えたくもありません。

 城壁を走り出される背中に、私は慌てて付いていきます。


「見張りは何をやってる……そうか、昨日梯子が――くそ」


 殿下は先ほどグリフォンがやってきた方の監視塔に首を向けられてから、悪態をつかれます。

 別の塔からは見張り兵がラッパを吹き鳴らす音が聞こえました。

 とはいえ、増援が来る前にすぐに追いつかれそうです。


 殿下はちらりと周囲に目をやると、一度立ち止まられました。周囲には資材が積んであるだけですが……。


「殿下?」

「先に行け、吸い込むなよ」


 私は促されて少し走ったものの、気になって振り向きます。

 グリフォンが殿下に向けて急降下し――外套を投げ捨てた殿下が横に飛んで避けられます。グリフォンの鉤爪が積み上げてあった袋を引き裂き、白色の粉が舞い散ってグリフォンの姿をけぶらせました。


「水はあまり得意じゃないんだがな」


 殿下はこちらに走って来ますと、くるりとグリフォンに向かって振り返り、手のひらから出現させた水の塊をぶつけまして――そして、グリフォンのけたたましい声が響きました。


「モルタルの原料の石灰だ。走るぞ」


 殿下は再び私の手を取ると、逃走を再開します。

 全身を熱で炙られ、皮膚を溶かされ、速度を落として。それでもなおグリフォンは追ってきました。

 城壁の上、柵のように連なる凸凹の胸壁と、凸部分に設けられた細いスリット――矢狭間やざまの間から、こちらに並走してくるグリフォンの姿がちらちらと見え隠れします。

 体長は、5、6メートルほどでしょうか。広げた翼のせいで余計に大きく見えます。


 途中、城壁の一部に屋根のように組まれた櫓をくぐろうとして、木造であることに気付きます。これはまずいのでは、と殿下に掴まれた手をくいと引くと、走りながら振り返られました。


「水の魔法に適性はあるな。上から遠慮なくかけてくれ」

「はい」


 殿下の冷静な声に私は急ぎ、魔力を手のひらに集め、櫓の下をくぐる直前に土砂降りの雨さながらの水をかけました。

 間を置かずにグリフォンの炎が吹きかかりますが、濡れた木組みと革を張った屋根はむわっとした蒸気と焦げ臭さを立ち上らせただけで済みました。

 あと、殿下の髪に水しぶきがかかってキラキラと光り、平時だったら見とれてしまいそうです。きっと変な顔でしたから、殿下がもう前を向かれていて助かりました。


「そこの塔に入りませんか?」

「あの下は火薬庫だ。右へ行く」


 殿下はすぐ側の円塔を通り過ぎ次の岐路を右に進まれ、私は小石を蹴飛ばしながら必死で付いていきます。

 踵が低いブーツを履いてきて、良かったと心底思いました。


「入るぞ」


 手から温度が離れたと思いましたら、殿下は木に鉄を打った扉を手前に開けて、私の背を押されました。

 初めて背に触れられ――押し込まれるようにして入った私の背後で、バタンとドアが閉まり閂がかけられます。

 すぐにグリフォンの怒りに満ちた声のような甲高い叫びが響き、ガツン、ガツンとドアが叩かれて、衝撃で木片が飛び散り始めました。


「この扉じゃたいして持たない。下まで降りる」


 円筒内部には、外壁に巻き付くように階段が造られていました。上に行けば屋上の見張り部分、下に行けば……倉庫でしょうか。一番下にまで降りれば中庭に出られるはずです。


「殿下、……でも、庭には馬が」

「逃げるのが先だ。下で迎え撃たせる」

「グリフォンって馬、大好きですよね? もし何かあれば他の魔物の襲撃にも、運搬にも影響が……」


 それに城の大部分は石ですから燃えにくいのですが、作業用の足場が塔にかかっていたり、板や藁葺きで補修してあるところもありました。

 降りるまでの間グリフォンが暴れ回って、これ以上城に損害を、馬の被害を、殿下の負担を増やしたいと思えません。

 殿下のために私にも何か――。


 何かないかと周囲を見回すと、ここは様々な備品を集めている倉庫のようでした。予備的に使われているのか、物はまばらで空間は広々としています。


「あの――殿下、ここで仕留められませんか。あのグリフォンの炎への耐性はどれくらいあるでしょう」

「火矢をちょっと射かけたくらいではものともしないが、燃えないわけじゃない」

「それ以上の火力ならいけるわけですね。……では、ここをかまどにしてはどうでしょう」


 私が咄嗟に思いついたことを殿下に話しますと、力強く頷かれました。


「やる価値はある」


 その間にも嘴がドアを突き破り、獅子の腕がドアを遂に押し破りました。

 グリフォンは扉から鷲の顔を突っ込みましたが、ドアに打ち付けてあった鉄枠が首に引っかかり、また巨躯が邪魔をして最後まで押し入ることはできません――予想通りです。


 私は手元の薬瓶を開けると、部屋半ばまで伸びたグリフォンの頭部めがけて投げつけました。きつい悪臭が立ち上って苦悶の声が聞こえます。

 殿下はすぐに私の手を取って、階段を駆け降ります。

 苛立ったのか、グリフォンに背後から吐かれた炎が私の外套をあぶり、炭化して遂にぼろぼろと崩れていきました。


 ひとつ階下の扉を開け、低い城壁から殿下は叫ばれました。


大弩弓バリスタで縫い留めろ!」


 別の城壁の上で、移動式の台に載っている大きな巻き上げ式の弩弓が二台、こちらを向いたのを見て、殿下は扉を閉められます。

 上ではまだグリフォンの苦悶の声が聞こえました。

 あの薬、一応傷薬なのですが、苦くて、ついでに目に入るととっても染みると評判なのです。

 たぶんいっぱいいっぱいでしょうし、私たちが外に行ったと思っても目が使えなければ咄嗟に戻れないでしょう。


 ――ドン、と塔の外壁に衝撃が響きました。

 もう一度。更に、もう一度。

 思ったより強い音が私の身体にも響いてきます。


「その、殿下……」

「大丈夫だ、こんなことで崩れやしない」


 殿下は安心させるように私の手をぎゅっと握ってくださいます、が。

 私は鞄を漁ると、手を振り切って階段を登りました。持ち歩いていた治療用の植物油をありったけ、ぶつけます。

 瓶が割れ、中の液体が降りかかります。


 目が見えないながらグリフォンはこちらを向き、口を開け……。


「馬鹿、俺に向かって飛べ!」

「はい!」


 私が階段の中ほどから跳躍すれば、頭上を熱と炎の塊が通り過ぎ――階下で殿下がしっかりと抱き止めてくださいました。

 ええと……見た目よりずっと引き締まってたくましいのですが。こんなことがあっていいのでしょうか。


「聞いてない、何を考えてる、外へ出るぞ」


 殿下は私を放すと側にかかっていた長弓ロングボウと矢を掴み、階下の扉から出ました。

 外から見れば、塔内部に上半身を突っ込んでいるグリフォンの両翼が扉の左右、塔の壁に大きな太い矢ボルトで縫い留められていました。

 獅子の後ろ足がうねり、尾が怒りに振り回されています。


「続けて撃て!」


 殿下が塔に向かって声を上げれば、巻き上げ終えた二台の大弩弓バリスタが順に、格好の的になったグリフォンの後背に太い矢ボルトを撃ち込みました。

 殿下もまた弓をつがえて矢を放ち続ければ、鋭い軌跡を描いて次々と背に突き立ちます。

 私も手のひらほどの火を飛ばせば、油に引火した火が、身体を覆う矢を薪の代わりにして燃え上がっていきました。

 更に殿下が魔法で起こした風が更に塔内の一部屋をかまどのようにして、火が窓から吹きあがります。


「アイリス嬢……見るのが辛ければ背後に」

「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


 円塔の熱から徐々に遠ざかりながら、渋面でもなく本気で私を心配してくださるような瞳に、やはりこの方はいいひとなのだなぁと心が温まります。好き。

 ……なので私はこの案の仕上げにまいります。


「それでは殿下――お肉の焼き加減はどれくらいがお好きですか?」



***



 その夜の夕食には大広間ホールで、殿下たちが仕留められたグリフォンの肉が供されました。

 珍しい魔獣ということで、騎士の古い慣例に従いまして殿下が切り分けを行います。

 殿下は見事に指揮を執られた上にこんがり焼けた肉を手に入れた、ということで一気に人心とまで言わずとも少し尊敬が集まったようです。


 騎士たちが全員ホールに集まると壮観でした。

 質の良いエールやパンなども倉庫から少し振舞われて、ちょっとした宴会のようになっていました。

 グリフォン襲撃を潜り抜けたり、その後の後始末で追加のひと仕事を終えた皆さんの顔は久々に明るく、所属関係なく会話も弾んでいるようでした。


 私は騎士ではありませんので部外者感はありますが、薬用にいい感じに煎じられた爪などの素材も手に入ったので嬉しいです。


 ……ただ、たった一人、殿下は何故か難しい顔をされていますが。こういった場が苦手だからでしょうか。


「殿下、皆さんがひとつにまとまる機会ですよ。笑顔です笑顔」

「できるか」


 私も殿下にグリフォンの肉を少しお皿に取り分けてもらいます。

 こんがり焼けたお肉は殿下のお好みの焼き加減。焦げ過ぎないように水で消火したのが良かったようです。外はこんがり、中までじっくり火が通っています。

 やっぱり鷲部分と獅子部分ではお肉も大分違うなあとお皿を眺めていると、殿下がぽつりと呟かれました。


「貴女は……恐ろしい女性だな」

「――え」


 ――それは。あれでは。

 グリフォンを焼いて饗すれば殿下の評価アップ、なんて令嬢らしくないことを思い付いてしまったからでは。

 それとも殿下を庇ったり、薬を投げ込んだりしたから?

 女らしくないとかで……嫌われてしまった?


 私が不意に固まっていると、背後から大柄な壮年の男性の声が聞こえました。


「今日一日で殿下は株を上げられましたな。グリフォンの被害も最小限で何よりでした。あれが馬に与える被害と言ったら。それに立派に婚約者も守られて――」 


 視線を向ければ、男性は大弩弓バリスタを撃たれた前隊長でした。

 殿下はそれ以上私に注意を向けることもなく、お二人の間でぽつぽつと、やがて会話が弾んでいくのを見て、私はそっと離れます。

 皆さんお知り合いばかりなので、空いていた隅っこに座ることにしました。




 それがいけなかったのでしょうか。


「……どうかされましたか? お顔の色が優れませんよ」


 隣に、以前食堂で誘いを掛けて来た部下の華やかな人――ヘイデンさんが、お皿とエールのジョッキを持ってきて座られました。

 私はつい殿下を目で探してしまいますが、殿下はまだ歓談中です。せっかく打ち解けられるチャンスなのに助けを求めるなんてできるはずがありません。


「少し走りすぎたようです」


 曖昧な笑顔を向けますと、ではお部屋までお送りしましょうか、と返ってきました。

 ――これはまずい気がします。

 殿下の評価が上がっているときに、助けられた当日、私が疑われるようなことをしでかしましたら――もしこの方が殿下の失脚を狙うような方だったら、取り返しがつきません。

 それに。

 いくら恐ろしい女だと思われていても、これ以上殿下に嫌われるようなことは……。


「……」


 駄目です。

 お師匠様はこんな時、人の話を聞くなと言ってました。自分が不安定な時は相手の話を聞いてもろくなことがない、と。

 それで、話を聞かないようにするには、逃げるか、耳をふさぐか、それとも……。


「私、今日殿下に惚れ直しました。殿下の不利益になるようなことはできません」


 思い切って言ってしまえば、彼は手を口で押さえて面白そうに笑いました。


「……惚れ直した、ですか。あの殿下に。……それはそれは」

「どこか可笑しいでしょうか。確かに私の言いようは、少しばかりたしなみに欠けるとは思いますが」

「いえいえ、……それは私の上司も安心しますね」

「……上司?」


 上司、と言えば殿下のことだと思うのですが。

 私が疑問を顔に浮かべてしまったからでしょうか、ヘイデンさんは笑いを納めますと、


「メイソン殿下の兄君ですよ。王都からあまりに遠いために目が届かないと、代理で私がこの部隊に加わることになったんです」

「代理、ですか」

「今までメイソン殿下の縁談をことごとく潰してきてしまった負い目――ですね。それから殿下に近づく女性が、殿下をずっと見てくださる方かどうか、見極めるために」

「……それは、私や、他のご令嬢も試されていたということですか」


 ヘイデンさんは鼻を鳴らすように小さく笑われました。


「故意ではなく結果的にですよ。兄君がた、特に王太子殿下は年の離れたメイソン殿下に対して過保護ですからね。

 もし結婚されてその後親族で集まった後に心変わり……とでもなれば、殿下には大きな傷が残るでしょうし、王家にもダメージがあります」


 種明かしをされてしまって毒気を抜かれた私でしたが、次に怒りが頬に昇ってくるのを感じました。


「殿下のことを想われて……だとしてもいただけませんね。私がもし誘いに乗ったらどうされたのですか?」

「それはそれで殿下は婚約解消に踏ん切りをつけるでしょうし、アイリス嬢は薬師を続けるのに不都合のない家に嫁ぐことができますし、侯爵家の娘さんを頂けて私が役得ですね。貴女を見てると退屈しないので」

「……そうですか。私、華やかな方は気後れするので苦手です」

「華やかな方、というカテゴリより一歩踏み込んでいただければ、違うものも見えると思いますよ。

 それに殿下と結婚すれば、結局その華やかな場から逃れられないのではないですか。

 私と結婚すれば私の顔と態度だけで済みます」


 そう語られるこの方は伯爵家の次男なので、親から爵位を継がず、ご自身で騎士爵を受爵されたそうです。


 確かに条件だけなら悪くないのかも。

 でも……別に、条件なんていいんです。

 結婚してもフラれても、殿下は私に恋というものを初めて教えてくださったんですから。

 お師匠様が言ってました。恋するなんて正気ではできない、って。多分ずっと昔に何か、大切な思い出があってのことなのでしょう。


「自分でどうにかできる感情なら、こんな北の地まで来ませんよ」

「……それはそうですね。では、ミス・オースティンに幸運を」


 手に持っていたエールを飲み終え、彼は私に笑みを一つ残して同僚たちの元へ戻られました。

 私は場を持たせようとちまちま食べていたお肉を最後にしっかり味わってから、お酒よりお茶がいいなあと自室に戻ります。


 それにもし殿下に嫌われてしまったかもしれないなら、手紙はお約束通り倍。いえ今日は5倍くらい書いてお渡ししたいなと思ったのです。

 ちょっと顔を会わせづらくなってしまった、ので。




***




 手紙をしたためている途中、軽く扉がノックされました。

 殿下だったらどうしよう、先程のヘイデンさんとの会話を疑われていないだろうか、その前に恐ろしい女ってどういう意味だろうか。

 そんな思いが頭を渦巻いていると、やっぱり扉越しに殿下の声が聞こえました。


「……私だ」

「どなたですか。一応、安全のために、詐欺師みたいな名乗りはやめてちゃんと名乗ってください」


 殿下の声を聞き間違えるはずがないので、意地悪みたいですが。


「第三騎士団所属後方支援科メイソン・ウィンズベリー、まだ貴女の婚約者だ」


 私が薄くドアを開けると、真顔の殿下が立っていらっしゃいました。

 広間からそのままいらっしゃったのか、上着は脱がれていましたが、軍服のままでした。


「お茶に来ていいと言っただろう」

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