第69話 沈む

 八月に入り、夏休みも折り返し地点。例年なら、この時期にはとっくに課題は終わらせている。


 しかし、今年は勝手が違って。勉強机に座っても全く集中できない。数式と格闘しているうち、意識はいつの間にか別のことに逸れてしまう。主に、れんのことに。


 れんは今日も部活で家にいない。そんな不在に対しての寂しさが、れんについての思考に拍車をかける。


 例えば昨日の花火大会について。


 折角の初デートなのに、れんと島本さんが並んでいるのを見ると、心が黒い靄に包まれて、いてもたってもいられなくなって。そして気づいた時には、れんの手を引いて、家へと踵を返していた。


 本当にどうしてしまったんだろう。れんに仲良しの友達がいるのは、とてもいいことのはずなのに。それなのに、昨日のわたしはれんと島本さんが並んでいるのがなんだか耐えられなかった。熱病に冒されたような、人生で初めての感情だった。


 しかも、それだけにとどまらず、わたしはれんの唇だけじゃなく、舌をも奪った。


 舌と舌を絡めるキスなんて、小説でしか読んだことがなくて、それが自分の身に起こることだなんて実感は一度も抱いたことが無くて。それなのに、気づいた時には、わたしはれんの口内へと侵入していて。その罪深さに、途方に暮れる。けれど、その時は、そうしないと安心できなくて。


 れんと恋人になってから、自らの感情に振り回されてばかりいる。自分が自分じゃないみたいな、感覚に苛まれる。そんな感覚は痛くて、苦しくて。


 それでも、れんに会いたいと思う。早く帰ってきて欲しいと思う。


 こんな矛盾をいくつも抱えることが、恋をすることなんだろうなって、そんなことをぼんやりと考えた。そうやって遅々として進まない課題と格闘しているうち、ゆっくりと夜が近づいてくる。れんと過ごす夜が。


           ◇


 就寝前、二人きりの時間。冷房は十分に効いているはずなのに、暑い。なぜなら、れんが引っ付いてくるから。いつも通り、抱き着くような姿勢で。けれど昨日、いつもとは違う行為をしたがために、いつも以上に鼓動がうるさくて、顔が熱くてドギマギしてしまう。


 わたしは、涼しげな表情を浮かべるれんを見つめる。れんは恋人になってから、何があってもブレずにわたしに甘えてくる。そんな平然とした態度で真っすぐに向けられる好意は嬉しいけれど、それ故に、わたしの心臓は定期的にピンチを迎えるのであった。


 そして、今も。


「お姉ちゃん、キスして」


 れんは、密着したまま、そんな言葉と共に目を瞑る。


 わたしは、爆発しそうな鼓動を抑えながら、ゆっくりと、唇が触れるだけの口づけを落とす。


 あっさりと離れた唇に、れんは、目を開いて呟く。


「みじかい」

「そ、そうかな?」

「昨日みたいには、してくれないの?」

「だって、あれはなんか、その、大人すぎるし……」


 もう一回あんなキスをしたら、歯止めが利かなくなりそう。そんな本音を隠して、わたしは答える。しかし、れんは取り繕った欲望にずけずけと土足で踏み込むように、言葉を溢す。


「気持ちよかったのに……」


 そう言って、れんは身を乗り出して、わたしの首に自分の腕を巻き付ける。そんな、いつもの体勢。しかし、何度繰り返しても、触れ合う体温や、至近距離でれんの顔があることに、慣れない。いつだって、その美しさに吸い込まれそうになる。


「ねえ、だめ……?」


 そんな言葉に抗えないということはわたしが一番わかっていて。そんな諦念でさえも、言い訳に、わたしは口づけを落とした。唇を斜めに、その先を前提とした口づけ。予定調和のように、れんの口内に侵入して、不器用に硬直するれんの舌を撫でて。それだけで予定調和にしては大きすぎるほどの快楽に包まれて。


 無我夢中で、れんの舌を蹂躙しながら、思った。一度知ってしまったら、もう引き返せないと。

 

 キスの性質が変わると同時に、背負う罪や、快楽や、れんへの気持ちや、全てが深まっていく。それらすべてを抱えて、深海に二人で沈んでいくようだった。

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