第67話 花火の音は聞こえない

 祭囃子の中、屋台が立ち並ぶ境内を、手を繋いで歩く。揺れる巾着も、触れる体温も昔と同じように時を刻む。ただ、その行為の意味やわたしたちを繋ぐ名前だけが違っていて。名前が違うから、お祭りの光に照らされるれんの横顔に見惚れたり、鼓動が高鳴ったりする。


 わたしよりも広い歩幅で、少しだけ前を歩くれん。以前は着慣れない浴衣に覚束ない足取りだったのが、今では洗練された美しさを纏っていて、人混みの中でも一際輝いて見える。


 当然、周囲の人もれんに視線を集めていて、けれど、れんの視線が捉えるものはその誰でもなく、わたしで。


 れんは振り向いて、わたしを見つめ、呟く。


「二人でお祭り、うれしい」


 いつもの無表情で、笑顔の代わりみたいに、わたしの手をぎゅっと握る。


「わたしも、嬉しい。懐かしいよね」

「それもあるけど……デートだから」


 れんの言葉が改めて、今と昔の違いを提示する。姉妹という関係性に加えて、わたしたちは恋人という同じ名前で繋がった。同じ罪で繋がった。罪の味は甘くて、この罪を背負う限り、目の前の美しさを独占できるのだという事実もまた、甘くて。


 昔は、ふわふわと周囲の喧騒の中を浮かんでいるように感じていた。今はどれだけ人がたくさんいても、賑やかでも、誰も触れない二人だけの世界へと沈み込んでいくように感じる。


「花火見るなら、人があんまりいないところで見たい」


 喧騒の中でも、れんの鈴の音のような声は真っ直ぐ耳に届く。


「どうして?」


「お姉ちゃんがかわいいから、あんまり他の人に見せたくない」


 れんの頬が赤いのは、屋台の光のせいか、それとも。


 周囲に美しさをまき散らすれんから、わたしにだけ向けられる視線が、少し気恥ずかしくも、愛しい。


「わかった。神社から、少し離れたところで見ようか」


 れんは満足げに頷く。


「折角だし、何か屋台で買っていく?」


 わたしが尋ねると、れんは周囲を見渡して


「あれ、食べたい」


 れんが指した先にはわたがしの屋台。大きなわたがしが、光を反射してきらきらと光っている。


「いいね」


 甘いもの好きなれんらしい選択に頬が緩む。


 わたしたちは人混みを縫うように、そちらへと歩みを進める。はぐれないように手を固く結んで。そうして、人の流れから抜け出して、屋台周りの空白地帯。


 唐突に見知った声が鼓膜を撫でた。


「れん、と、お姉さん」



 そこには島本さんがいた。私服姿の島本さんは手にりんご飴を二つぶらさげていた。


 わたしはとっさにれんから手を離す。


「島本さん。こんばんは」

「りらも来てたんだ」


 島本さんを前にした時のれんの口調はいつもより砕けていて柔らかい。友香ちゃんも含めた四人でお昼ご飯を食べることもあったし、そんなれんを見るのは初めてじゃないはずなのに、心がなぜか少し曇る。


「うん。あいつ……高槻せんぱいと来てたんだけど、はぐれちゃって。れんはお姉さんと来たんだね」


「うん」


 そんなやり取りの後も二人は続けて言葉を交わす。部活の話とか、わたしの知らない世界の話を。わたしは一歩引いてそんな二人を見つめる。


「ていうか、れん、浴衣、めっちゃ似合ってる。その、かわいい」

「ありがと」


 島本さんは、頬を赤らめて視線を斜め下に落としながら、告げる。そんな不器用な様子は少しだけ、れんに似ている。


「あ、お姉さんの浴衣も凄く似合ってます」


「あ、ありがとう」


 わたしは笑顔を意識しながら答える。本当に上手く笑えているかは、分からない。


 れんを見つめる島本さんの視線は熱くて、強い。そして、そんな眼差しも、りんご飴と同じ色の頬も、全てが可愛らしい。背が高くて、れんと並んでも見劣りしないくらい、綺麗で、それに恋が美しく化粧を施す。


 そうだ、島本さんはれんに恋をしているんだ。校舎裏で、直接告げられた時よりも、痛切にそう感じた。いままで、なんでその事実を気にかけなかったんだろうって不思議なくらい、その事実は大きくて、心が切り裂かれそうになる。


 れんと島本さんが言葉を交わしている、その光景だけで、胸が軋む。


 島本さんは、れんがわたしから離れた時にできた友達で、わたしの知らないれんを知っていて。


 祭囃子がうるさい。周囲の喧騒も、うるさい。屋台の光が、島本さんの手にぶら下がった、りんご飴をてらてらと照らす。


 れんの先ほどの言葉が反射するように、わたしの心をなぞる。


 れんの美しさを誰にも見せたくない。島本さんにも見せたくない。


「じゃあ、姉妹水入らずを邪魔するのも悪いし、私はこれで。あいつ……高槻先輩も探さないといけないし。じゃあ、れんと、お姉さんも、楽しんで」


「また、部活で」

「ありがとう、友香ちゃんにもよろしくね」


 わたしは、なんとかそれだけ、言葉を絞り出して、遠ざかっていく島本さんの背中を見送った。島本さんの手で揺れるりんご飴の赤色がチカチカと瞼の裏で、島本さんの姿が見えなくなった後も光っていた。


 それから、程なくして、れんの手が再びわたしの手に触れる。そのまま固く結ばれる。


 この後は、わたがしを買って、神社のはずれで、花火を見る。その予定で。そのはずなのに、わたしの足はその場で固まったまま。りんご飴のてらてらとした残光がむき出しの欲望を照らす。


「お姉ちゃん……?」


「れん、ごめん」


 わたしは、予定を逆向きになぞるように、先ほどとは反対側の人の流れに乗る。そのまま、境内を離れて、花火大会へと向かう人とは逆向きに来た道をなぞっていく。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


「ごめんね」


 困惑するれんにわたしはうわごとのように繰り返す。祭囃子はどんどん遠ざかって、やがて消えた。屋台の光も置き去りに、家へと続く夜道を二人で歩く。


「早くしないと花火始まっちゃうよ!」


 姉妹だろうか。浴衣を着た小さな女の子二人がはしゃぎながら、わたしたちとは逆向きに駆けていく。


 それでもわたしは歩みを止めず、繋いだ手、れんを引っ張るように。暗闇の中を不揃いな下駄の音が響く。


 鼓動は驚くほどに静かだ。それなのに、痛い。


 そして、わたしたちは、元来た道をなぞり終え、家の前までたどり着いた。


「お姉ちゃん、どうしたの? 忘れ物?」


 れんの素朴な問いかけに、胸が痛い。わたし自身もどうしてこんなことをしたのか、分からない。ただ、れんと島本さんが話していた時に生じた感情が拭えなくて、りんご飴の赤色がチカチカと瞬いて、瞼の裏からはがれない。


 分かっているのは、わたしの胸を占める感情が酷く醜いということだけ。


「ごめんね」


 やっぱり、わたしはそう呟くしかなくて、そんな呟きも玄関の引き戸の音にかき消される。


 家の中は真っ暗で、お母さんはまだ帰っていなかった。


 わたしは、れんの手を引いて、暗闇の中、自分の部屋へと向かう。


 階段を上って程なくして、たどり着く。いつもの部屋。わたしたちだけの部屋。二人だけの国。


 ドアを開けて、電気も冷房も点けず、わたしたちは縺れるように、ベッドへと落下する。丁寧に着つけた浴衣がはだけていく。そんなことにもお構いなしで。


「れん、ごめんね。折角の初デートだったのに。花火大会だったのに」

「お姉ちゃん……」

「けどね、ダメだったの。れんを、もうこれ以上、他の人に、見せたくない。れんはわたしの妹だから。わたしの、恋人だから」


 れんは目を見開く。


「だから、ごめんね」


 わたしは、そのまま、れんに口づけをした。突然のキスに、れんは目を瞑らず、わたしを見つめる。わたしも目を開いたまま、れんの首に腕を回して。


 浴衣が不揃いに重なる。はだけた隙間から、体温が交わる。視線と視線が絡み合って、解けない。離さない。


「いいよ……私は、お姉ちゃんのものだから」


 れんがそう言って、ゆっくりと目を瞑る。わたしはれんの囁きに吸い込まれるように、再び、れんに口づけを落とす。顔をいつもよりも傾けて。深く重なる角度で。


 硬直するれんの身体、唇を舌先で優しくなぞって、わたしはれんの口内へと侵入した。


 舌と舌が、絡まる。不器用なれんの舌を優しくなぞる。火花が散るような快楽が、脳を走った。それと同時、部屋を包む暗闇が微かな彩りに照らされる。ぼんやりと、その光を見つめてから、それが、花火の光だと気づく。


 しかし、花火の音は聞こえない。浴衣同士の衣擦れの音、舌と舌が絡み合う音、微かに漏れる甘い嬌声、荒い息遣い。


 二人だけの世界、互いの身体に沈んでいく。


 深い海の底、花火の残光と、弾けるような快楽が水面で揺らめいているのが見えた。

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