第54話 おあずけ

 蝉の声や、近所の子供たちがはしゃぐ声が響いている。家の中がやけに静かに感じる。れんは部活に行っていて、お母さんも仕事で、一人きり。


 わたしは着々と、学校の課題を進めたり、家事をこなしたりして、時間を過ごす。そんなこれまでと同じ夏休み。


 しかし、今年は何となく、物足りなさのようなものがあった。むねにぽっかりと穴が空いているような。隙間風が吹き抜けるような。その隙間にぴったりと収まるのがれんの他にいないことを、わたしは薄々気づいている。


これまでの夏休みは、こんなに一人が寂しくなかったのに。れんのことで、こんなに頭がいっぱいになったりしていなかったのに。


 一学期が始まる前は、言葉を交わすのですらも稀で、遠ざかってしまった距離に頭を悩ませていた。それがいつの間にか、近づいて、二人でいるのが当たり前になって、今では、ほんの少し一緒にいないだけで、辛くなるなんて。

 

 近づいた距離の中、れんに触れるたび、キスと好きを交わすたび、わたしはどんどんおかしくなっていく。どんどん、一人じゃ生きられなくなっていく。まるで、れんという毒にゆっくりと蝕まれていくように。その、甘すぎる感触が忘れられず、依存して、中毒になっていくように。どんどんとバランスを崩して、れんの方向に倒れこんでいく。


 こんなんじゃダメだ。だってわたしはお姉ちゃんなんだから。れんにもたれかかるんじゃなくて、わたしがれんを守らないと。


 そんな風に自身を戒めて、わたしは、晩ご飯の準備に取り掛かった。


今日は、豚肉の生姜焼き。サラダや、みそ汁を作りながら、お肉の下ごしらえをする。そんな風に同時並行で作業を一つ一つ片づけ、あとは、お肉を焼いていくだけ。


 フライパンに油を引き、熱が入るのを待っていると玄関のドアがガラガラと開く音がした。廊下から、駆け足気味の足音が近づいてきて、キッチンにれんが顔を出す。


「おかえり」


 わたしは、振り向いて言った。すると、れんはそんな挨拶もお構いなしに、こちらに突進してきて。


 ぎゅっと抱きしめられた。


「れん、料理中だから、危ないよ」


 れんは、そんなわたしの忠告にもお構いなしで、顔をわたしの首筋に擦り付ける。沈みこむように、れんの大きな身体がわたしを包む。爽やかな制汗剤の匂いと、昔から変わらないれんの匂いが混ざりあって、鼻腔をくすぐる。


 わたしは勢いよく甘えてくるれんに苦笑いをしながら、後ろ手でそっと、火を消した。油が跳ねて、れんが火傷をするといけない。もう既に火傷したように熱い、自分の心の内は顧みずに。


「……寂しかった」


 れんがぽつりと、耳元で呟いた。


「どうして? 部活してたんじゃないの?」

「けど、部活にはお姉ちゃんがいないから」

「なにそれ」


 そう言って笑う。笑いながら、さっきまでの寂しさがれんによって埋められていくのを感じる。れんが、わたしと一緒にいないことに寂しさを感じていたという事実がわたしの寂しさを上書きしていく。


 れんはわたしの返答が不満だったのか、更に深く抱き着いてきて、また耳元で呟く。


「お姉ちゃんも、バスケ部入る? そうすればもっと一緒にいれる」

「わたしはれんみたいに運動もできないし、背も高くないよ」

「じゃあ、マネージャーとか」

「まあそれならできるかもだけど」


 わたしの返答に、至近距離でわたしを見つめるれんの瞳が、相変わらずの無表情の裏で、輝いたような気がした。そんな輝きに、目を奪われて、それから今更のように、顔の近さにドギマギして、わたしが内心でやかましくしていると、ハッと何かに気づいたように、れんが急に首を横に振った。


「やっぱ、今のなし」

「どうして?」


 別に本気でバスケ部に入ろうとは思っていないけど、そのあまりの変わり身の早さに思わず尋ねる。


「だって、私以外の子にお姉ちゃんが水を渡したり、話したりしているの見るのいや。そんなの見たらまともにプレーできない。だから、私専属のマネージャーでなら、バスケ部に入ってもいいよ」


 れんはいつもの淡々とした声で、とんでもないことを言う。というか、いつの間にかわたしがバスケ部に入りたいみたいになっているし。


 けれど、れんにそういった重さを向けられることは、心地よくて。自分がれんに傾いていくのは危機感を覚えるけど、れんに寄りかかられるのは嬉しくて。もっと、離れられないくらい、そうなって欲しいと思う。


「バスケ部には入れないけど、れん専属のマネージャーは楽しそう。それにれんは、わたしがいないとダメみたいだし」


 わたしはお姉ちゃんぶってそう言う。ちょっとふざけすぎたかなと思ったけど、目の前のれんは真顔で頻りに頷いていて、そんな仕草が愛しくてたまらない。

わたしは猶も、お姉ちゃんぶって告げる。


「もうすぐご飯できるから、着替えておいで」

「わかった。けど、その前に」


 そう言ってれんは、目を瞑る。それだけで、何を求められているか、すぐにわかって。わかったけれど、あえて、わたしはその通りには動かなかった。


 息遣いが伝わるまで、れんに顔を近づけて。顔と顔が重なる直前。人差し指をれんの口に当て、耳元で囁く。


「夜まで、おあずけ」


 わたしの囁きに、身体をびくりと震わせたれんは、不満げにこちらを見つめて呟いた。


「やっぱり、お姉ちゃんは、いじわる」


 そう言って、一目散に自分の部屋の方に駆けていく。まるで、赤く染まった頬を隠すように。


 わたしは、その赤色を弾む気持ちで見送りながら、料理を再開した。


 お肉をフライパンに入れ焼いていると、調子に乗りすぎた自分への罰のように油が肌に跳ねた。

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