第46話 キスして
お母さんと晩ご飯の支度をしていると、玄関からドアがガラガラと開く音がした。
「れん、帰ってきたんじゃない? 愛、迎えに行ってあげて」
「うん!」
わたしは、お母さんに促されるまま、玄関へと向かう。
ドアの前には、いつもより少し大きなカバンを背負ったれんが立っていた。
「ただいま」
昨日のラインとは、到底結びつかない平坦で冷たい口調。けれど、そんな声色とは裏腹に、身体はわたしの方へと吸い寄せられるように接近して、わたしの身体に落下するように、しなだれかかってきた。溶けるような抱擁。一日離れただけでどこか懐かしく感じる体温に、いつも通り、鼓動が高鳴った。
「おかえり」
れんの耳元でささやくと、抱擁が更に強くなる。わたしは、れんをあやすように、ショートカットの髪を撫でる。
「早く、会いたかった」
「わたしも会いたかったよ」
れんの素直な言葉に釣られるように本音が口から洩れる。顔が熱くて、絶対に頬は朱色に染まっている。れんが近すぎるが故に、それがばれないことだけが幸いだった。しかし、そもそもれんが近すぎるが故に、更に、顔は熱を帯びるのだった。
「今日も、お姉ちゃんの部屋行くね」
「わかった」
頷いてから、昨日のれんとのやり取りを思い出す。れんにごほうびをあげるという約束。
れんはわたしに何を求めるのだろう。そして、わたしはれんに何を差し出すのだろう。
抱擁は中々解けなかった。その間中、熱と思考がごちゃ混ぜになって、頭の中を回っていた。
わたしは、そんな状態で何とか理性を絞り出して、れんに告げる。
「その前に、ご飯食べよ。もうすぐ準備できるから」
「うん」
れんは頷いて、名残惜しそうに身体を離す。
自分から言い出したのに、わたしもれんに共鳴するかのように、名残惜しさを感じていた。
◇
晩ご飯を食べ、後片付けもこなし、お風呂にも入り、自分の部屋のベッドで一息ついていると、見計らったようなタイミングで、ドアがコンコンとノックされた。
「どうぞ」
声をかけると、ドアが開いて、予定調和のように、れんが顔を出す。
れんは慣れた素振りで部屋を歩き、そのままわたしの隣、ではなく身体の上に横たわる。
「あのー。れんさん……?」
わたしはいきなりの急接近に面食らう。
「合宿で疲れたから……ダメ?」
平淡な声で、れんは甘えてくる。いつもながら、そのギャップと器用さに感心する。そして、その感心はいつも暖かなものを孕んでいて、甘えてくるれんを邪険にできるわけがなかった。
「いいよ」
「やった」
小さな声で、れんは呟く。そして、わたしの太ももに顔をうずめる。その子供っぽい動作についつい頬が緩む。わたしの手は無意識に、れんの頭を撫でている。
そうして、しばらく二人で、優しくて柔らかな時間の中に沈みこんでいた。ご褒美のことなんてすっかり忘れて、子供の頃に戻ったような、ふわふわとした時間。
しかし、それは唐突に切り裂かれた。切り裂いたのはれんだった。
「合宿の行きと帰りのバスの中で、デートの時お姉ちゃんにオススメされた小説読んだよ」
「そうなんだ......面白かった?」
突然もたらされた話題に困惑しながらも、オススメしたものを読んでもらえたことは嬉しくて、わたしは尋ねる。
「うん。恋のお話で、ちょっと切なかった」
れんは頷いて、何事か考え込むかのように、黙り込む。少し間が空いて、それから、呟くように、尋ねる。
「あのさ、お姉ちゃんはキス、したことある?」
唐突な問いに、頭をガツンと殴られたようになる。
「急にどうしたの……?」
「小説の中に書いてあったの。『初めてのキスは甘かった』って。それが本当か気になって。ねえ、お姉ちゃんはキスしたことある?」
れんは、再びそう尋ねた後、身体を起こす。れんの顔が、目の前に。
わたしの視線は、自然と、れんの薄い唇に吸い込まれて。一点をじっと見つめたまま答える。
「ないよ。れんはあるの……?」
尋ねながら、あったら嫌だなって思ってる。なんで嫌なのか、その理由もわからなくて、頭の中が沸騰したように熱い。
「あったら、聞かない」
「そうだよね……」
確かに、その通りで。少し考えれば分かることで大げさに安心してしまう自分の心が分からない。
そんな安堵や、困惑。すべてを置き去りにする様に、れんが呟く。いつも通りの冷たい口調で。
「キスして」
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