第43話 シュウチャク
梅雨の隙間から、季節が夏へと衣替えを始めた時分。週末を目前に控えた、なんでもないはずの一日。それが、れんの行動の数々によって変わっていく。
今日のれんは様子がおかしい。
例えば、わたしが晩ご飯を作るべく、フライパンの前で野菜炒めを作っていた時。部活を終え、家に帰ってきたれんは一目散に私の元へと駆けつけて、ただいまも言わずに、わたしの身体を抱きしめた。そのままバックハグのような体勢で囁く。
「お姉ちゃん」
「急にどうしたの!?」
「どうもしないけど」
いつもの冷たい声色。しかし、それとは裏腹に、れんは後ろからわたしの首元に顔をうずめる。まるで、わたしを吸うみたいに。いつもより大きな呼吸を繰り返す。耳にれんの熱い息が触れる。
「あの、れん。ちょっとくすぐったいかも」
「我慢して」
にべもなくそう言って、れんは抱擁を強める。
わたしの代わりに悲鳴をあげるように、フライパンの中で野菜炒めが、熱に悶えジュッと音を立てる。
れんの体温に包まれて、心臓が居場所を主張するように跳ねて。鼓動は痛くて、れんが触れるところは柔らかで。いつまでもその感触に身体を委ねたくなるのをグッと堪えて、わたしは告げる。
「もうちょっとでご飯できるから。着替えておいで」
「......わかった」
その返事から、10秒ほど時間が空いて、やっとれんの身体は離れた。
わたしは、キッチンを後にするその背中を見つめながらいつもとは違う様子に首を傾げた。
他にも、ご飯を食べている間も、れんの様子はおかしかった。椅子を普段よりもさらに近づけて、ほとんど身体が触れ合うような状態で。
「なんか近くない......?」
「別に普通だし」
れんはそう言うけれど、明らかにいつもとは違う。そんな風に、食事の間中、れんの身体はすぐ傍にあって。肌に触れるれんの体温の輪郭が気になって、野菜炒めは味がしなかった。
その距離の近さは食事の後も変わらずで、お皿洗いをしている時も、洗濯物を畳んでいる時も、れんはピッタリとわたしの後ろにくっついてひとときも離れようとしなかった。ずっとそばにいて、お手伝いをしてくれたり、おもむろにわたしを抱きしめたりする。
まるで小さな頃に戻ったようだった。わたしの後ろを、ちょこちょこと付いてきていた昔のれんが思い出される。
しかし、わたしを包むものは幼い可愛らしさではなく、洗練された美しさの暴力で。行動の幼さと、わたしに触れる美貌のギャップに頭がクラクラした。
そして、今も、ひと段落してリビングの座椅子に腰掛けるわたしの膝の上に、れんの身体は当たり前のように収まっている。
そのサラサラとした肌の感触や体温に、慣れることなく鼓動は高鳴って、息が詰まりそうだった。行きすぎた幸福は苦しみとよく似た感触をしていて、そこから逃れるように、わたしはれんに言葉を投げる。
「今日はまた随分と甘えたさんだね」
「だって明日から合宿だから。お姉ちゃん成分を補充しとかないと、死んじゃう」
「死ぬは大袈裟じゃ......」
「大袈裟じゃない」
れんは言い切る。そして、いつかと同じように、身体を反転させてわたしと正対する。
れんの瞳がわたしだけを捉える。わたしの視界がれんだけになる。
そうやって、簡単に出来上がってしまう二人だけの世界。れんの言葉が甘く響く。
「わたしはもう、お姉ちゃんと一瞬も離れたくない」
いつもの無感情で表されるわたしへの真っ直ぐな執着に、頭が沸騰する。その言葉は、昔交わした約束とよく似た形をしていて、喜びで胸が締め付けられる。
嬉しくて、わたしもそうだよってそれだけで、いいはずなのに。それだけを伝えたいはずなのに。頭に湧くのはそれだけじゃなくて。
じゃあ、なんで一度、わたしから離れたの?
なんて、未練がましい、歪んだ執着が疑問符になる。わたしはお姉ちゃんなんだからそれくらい許してあげなきゃいけないのに。一度頭に浮かんだそれは、喜びでいっぱいになった鼓動の間隙を縫って、口から飛び出そうとする。
そんな言葉が形になる直前、甘く優しく、れんの言葉が蓋をする。
「だから、合宿所に着いたら、ラインしてもいい?」
そう言って、照れ隠しのように、わたしの胸に顔をうずめる。
そんなれんの行動の可愛らしさに、溢れて止まない愛しさに、醜い疑問符は一瞬で消し飛んだ。歪んだ執着はそのまま愛情に変換されて、わたしは、れんを優しさで包み込むように答える。
「いいよ。待ってるね」
わたしの返事にれんは喜びを表現するように、わたしの胸元に頬を擦り付ける。その様子はまるで、子猫が甘えるみたいで。
わたしは微笑みながら、れんの頭を撫でた。
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