第24話 ヤクソク

 じゃれあいと呼ぶにはあまりに甘い、血の疼き。弾む鼓動。押し寄せる体温。


 それを享受するような、耐えるような、あやふやなスタンスの中、わたしはれんの身体の隙間から上目遣いのような形で、思いついたことを口にする。


「そういえば、朝練あるんじゃない。時間大丈夫?」


「ある」


 そんな答えと裏腹に、抱擁が強くなる。れんという存在が、心臓に食い込んでくるように、鼓動が暴れる。


「けど、もうちょっと」


 れんがまた、耳元でささやく。顔に熱が集まるのが分かる。


「しかたないなぁ」


 そんな言葉で、必死に、主導権を取り戻そうとする。

れんの胸に顔をうずめるような形で良かったと思う。だって、今の真っ赤になった顔を見られたら、本格的に姉としての威厳は瓦解していただろうから。


 なんて、限定された視界に安心していたら、急にれんの身体が離れた。


「起きる」


 短く告げて、こちらも見ずに何事も無かったかのように、身体を起こして立ち上がる。


 高鳴る鼓動が名残惜しさへとすり替わる。一瞬、「もっと」とか言いかけて、慌てて口をつぐむ。いくらなんでもそれは、それは……?

 わたしは胸の中の疑問符を振り払うように飛び起きて、部屋を出ようとするれんに尋ねる。


「わたしも起きるよ。コーヒー淹れるけど、れんも飲む?」


「……飲む」

 一瞬、逡巡したあと、れんは頷いた。




 パックを開け、ドリップコーヒーの袋をカップに引っ掛ける。一つではなく、二つ。仲良く並んだカップに思わず頬が緩む。


 カチッという音が、お湯の沸騰を伝える。わたしは、傍らの電気ケトルを持ち上げ、交互にお湯を注ぐ。慣れ親しんだ匂いが、湯気と共に鼻腔をくすぐる。


 こまめにお湯を注いで、蒸らしてを繰り返して、コーヒーを淹れ終わる。わたしは、袋を外して、カップを食卓に持っていく。


 食卓では、既に制服に着替えたれんがトーストを食べていた。昨日と同じ、わたしの隣の席で。

 その奥では、無造作に点けられたテレビが、時間と曜日を示していた。今日は一週間の折り返しの水曜日、頑張りましょう、とアナウンサーが満面の笑みで伝える。

 わたしは、女子アナとは対極の無表情で座る、れんに告げる。


「コーヒーできたよ」


 そう言って、カップを食卓に置いて、席に腰掛ける。


「……ありがとう」


 れんは目の前で、揺れる黒色の液体をしばし見つめた後、カップに口を付ける。


 直後、れんの表情が歪んだ。


「ごめん。熱かった?」

「……うん」

「ちゃんとふーふーして飲まなきゃだめだよ」


 わたしは見本を見せるように、コーヒーの表面に息を吹きかけ、口を付ける。いつも通りの苦みが、喉を通り過ぎる。


 れんは無言で頷いて、しばらく静止した後、わたしと同じ動作でコーヒーを冷まし、カップに口を付ける。

「っつ」


 しかし、再び、その表情は歪んだ。うめき声まであげて。


 その様子に、わたしは一つの推察に思い至る。


「もしかしてれんって、ブラック飲めない?」

「……そんなことないし」


 その言葉を証明するべく、れんはいつもの整った表情でカップに口を付ける。しかし、その顔がお約束のように歪む。


 思わず笑みがこぼれる。そういえば、れんって昔から甘いもの好きで、苦いのは苦手だったっけ。それこそコーヒーだって、小学生くらいの頃にわたしの真似をして飲んで顔を顰めていた記憶がある。


 成長して、大人びた容姿のイメージで勝手に克服したと思っていたけれど、どうやら味覚は昔と変わらずみたいだ。たしかに思い返してみれば、一緒に食べたお昼ごはんのパンも、甘いものばかりだったような気がする。


 れんは未だに、恐る恐るカップに口を付けて、顔を歪めてを繰り返している。そこに、いつもの彫像のような美しさはなく、昔を彷彿とさせる、愛くるしい可愛さだけがあった。


 口元が緩んで、その拍子に言葉が漏れる。


「かわいい」

「うるさい」


 隣には、心なしか赤い、れんの頬があった。うなだれるように、首が竦んでいた。そして、苦味と格闘するれんに追い打ちをかけるように、テレビではスイーツ特集を報じていた。

 わたしはれんの頭をポンポンと叩いて席を立つ。


「シロップ、入れようか?」

「別に飲めるけど、お願い」


 れんは言葉尻を弱めながら、カップをこちらに差し出す。

 

 その様子にまた笑みを重ねながら、カップを受け取り、キッチンへと向かう。普段は使うことのないシロップを取り出し、ミルクも入れた方が飲みやすいかと勘案し、その二つを入れる。少し、シロップを多めに。

 打って変わって、真っ黒な液体は柔らかな亜麻色へと変化した。

 

 そして、再び食卓に戻りれんの前へカップを差し出す。

れんは、恐る恐るとそれを啜る。


「おいしい」


 思わずといった感じで呟いてから、ばつが悪そうに目を伏せる。


「それはよかった。それにしても、れんは本当に甘党さんだねぇ」


 軽くからかう。最近脅かされつつある姉としての威厳を取り戻せた気がして、少しだけ溜飲が下がった。


 そんなわたしの意地悪に、れんはそっぽを向いて、逃げるようにテレビの方を見る。いまだにスイーツ特集を報じているテレビを。

 それから程なくして、れんは何かを思いついたように椅子を動かし、こちらに正対するように座った後、睨むようにしてこちらをじっと見つめた。


「ど、どうしたの?」

 

 少しからかいすぎた? わたしはれんの視線に気圧されながら恐る恐る尋ねた。


 しかし、れんは中々言葉を発さなかった。本当に氷の彫像にでもなったように、ただじっとわたしを見つめていた。

 テレビの雑音が、耳の右から左へと通り抜けた。


 どうやら怒っているわけではなさそう……? それなら、一体どうしたのだろう?


 わたしが疑問に首をかしげていると、唐突にれんは口を開いた。


「私、甘いもの好き。それで、ショッピングモールに、気になっているパフェがある。ただ、それはカップル限定メニューで、日曜日部活が休みで、だから……」


 そこで、再びれんは静止した。発された言葉まで凍ったように、カチカチと角ばっていて、いまいち要領を得ない。わたしは再び、首を傾げる。


 すると、わたしの疑問に答えるように、端的に、答えだけが差し出された。


「でーと」

「え?」


 わたしの疑問符に蓋をするように、れんはぐっとこちらへ身を乗り出してくる。見下ろされるような角度で、にもかかわらず、上目遣いのように、れんの瞳が揺れる。


「だから、そのパフェが食べたいから、デートして。日曜日」


 冷たい声色とは裏腹に、そのお願いには熱がこもっているような気がした。多分、この熱がいけない。この熱がいつだって、遺伝子に刻まれた姉の本能を刺激して、わたしの首を縦に振らせる。


「わ、わかった。日曜日、でーとしよう」


 言葉の意味もうまくかみ砕けてないまま、わたしは頷く。

 その瞬間、れんの瞳が輝いた、気がした。


「やくそく、だから!」


 そんな言葉と共に、れんの長い指が、小指がわたしの小指に絡められた。懐かしい感触、言葉。しかし、その懐かしさに浸る間もなく、れんの指は離れた。

 

 それかられんはカップの中身を飲み干し、席を立ち、慌ただしく食卓を後にした

 わたしは、呆然とその背中を見送った。


 でーと。


 言葉を舌で転がすと、その響きがあまりにも甘くて驚いた。


 れんの席の前、カップの底にわずかに残った液体が、朝の光を反射して、テラテラと輝いていた。

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