第14話 アマトウ?

 先生のしゃがれ声とチョークが黒板をなぞる音が静寂に包まれた教室に響く。わたしは機械的に、書かれた古文をノートに書き写す。

 ノートで埋められた視界の隅、窓の外では五月の爽やかな風を一身に受けた葉桜が青々と輝き靡いていた。


 そんな風景や作業の隙間から思考に侵入してくるのは、れんのことだった。朝のHR前の時間、友香ちゃんにれんについて相談できていないのも一つの要因な気がした。だって、最近のれんの行動は、絶妙に人に話しづらい。膝の上に乗ってきたりだとか、ご飯を食べさせて欲しいとお願いしてきたりだとか。以前と比べて、急に距離感が縮まった。その割に態度や言葉の冷たさはいつもの通りで、そのチグハグさがわたしの頭を悩ませるのだった。


 もちろん、それが悪いわけではないんだけど。例えば、一緒にご飯を食べれたり、テレビを観たり、昔みたいに空間を共にできることはこそばゆくも嬉しかった。ありがとうってお礼を言われたのも堪らなく、嬉しかった。


 ただ、同時に、れんの肌に触れた時に生じた鼓動の速さであったり、時折生じる不可解な言動であったり。そういったものを思い出すたび、疑問符が浮かぶこともまた事実で。そんなこんなでずっとれんのことを考えていた。

 まるで小説に出てくる恋する少女みたいだ。頭に浮かんだ比喩に自嘲する。妹に恋する、だなんて。


 そんなことを考えているうちに、チャイムが鳴った。わたしは慌てて滞っていた板書を取り、日直の号令に合わせて起立と礼をした。


 そうして訪れた昼休みに、一瞬で、教室の空気は弛緩した。それに乗じるように、友香ちゃんがこちらの席に来た。


「疲れたぁ。古文の授業マジで眠いよね〜」

「先生、声が優しい感じだもんね」

「そうなんだよー。本当に睡眠導入ASMR出したら天下取れると思う」

「なにそれ」


 そんな風に軽快な会話と共に、お昼ご飯の準備をする。準備といっても、二人とも菓子パンだから、パンを鞄から取り出して、手を拭くだけなんだけど。


 友香ちゃんは食事にあまり関心がない。わたしも、自分の食事に関しては、あまり拘りがない。れんが高校に入ってすぐの頃に一度お弁当も作ったけれど、れんに固く断られたから、それ以降はずっとコンビニの菓子パンや総菜パンを食べている。


 気づいたらまたれんのことを考えていた。というか、以前からわたしの頭の中には常にれんがいて、最近のあれこれでそのことを自覚したというのが、近いのかもしれない。だって、友香ちゃんとも、れんについての相談を通じて仲良くなったところもあるし。


 そんなことを考えていると、教室のドアがやけに大きな音を立ててガラガラと空いた。それから、教室の空気がザワザワと揺れた。


「あれってバスケ部の子じゃない?」

「背高くてかっこいい〜」


 わたしは思わず、ドアの方に視線をやった。すると、そこにはさっきまで頭の中で散々思い浮かべていたれんの姿があった。


「あれ、妹ちゃんじゃん」

 友香ちゃんも声をあげる。れんは教室の中を静かに伺っている。


 わたしは立ち上がり、そちらに駆け寄った。周囲の視線が、集まるのがわかった。

「れん、どうしたの?」

 わたしの姿を認めて、れんは強張らせていた表情を少し緩めた、気がした。

「一緒にご飯、食べたいんだけど」

 なんでもないことのようにそう告げる。それだけで、心が波打つ。恐らく怪我が原因ではあるんだろうけど、れんが昔みたいにわたしのところに来てくれて、一緒に時間を過ごそうとしてくれることが嬉しい。

「わかった。ちょっと待ってね」


 そう言って、踵を返して、友香ちゃんの元へ駆け寄る。

「あの、れんがお昼一緒に食べたいって言ってるんだけど」

「おお、すごい進歩じゃん。よかったね。それじゃ、行っておいで」

「あれ? 友香ちゃんは?」

「いやいや、私だって久々の姉妹水入らずにお邪魔するほど野暮じゃないよ。わたしのことは気にせずごゆっくりと」

「わかった」

「あと、外でご飯食べるなら屋上がおすすめだよ。この時期だとそろそろ一回生が屋上に飽き始めて、人がいなくなる頃だから」

 そう言って、友香ちゃんはウィンクをする。そんな仕草は板に付いているのに、どこかコミカルで、わたしは笑みを浮かべながら両手を合わせる。

「ありがとう。じゃあ行ってきます」

「いってらっしゃい」

 そう言って友香ちゃんはひらひらと手を振る。それから、ドアの横から顔だけ出す形で、こちらの様子を伺うれんにも何か目配せを送る。れんはそれに、会釈をする。

 

 わたしはざわざわと揺れる教室の注目を一身に受けながら、れんのよこに並んで、その視線を置き去りに歩き出した。屋上を目指して。


           ◇


 頭上に広がる青空とコンクリートの灰色。そんな風景を、どうやら二人占めできるらしい。友香ちゃんの言う通り、屋上にはわたしたちを除いて誰もいなかった。五月も後半にさしかかり、いい加減に強くなってきた日差しもその一因かもしれない。わたしたちは、入り口周りの、うまい具合に影になっているところに腰を落ち着ける。


「今日も、食べさせて」

 もはや問いかけではなく、命令。クールな顔で平淡な口調は尊大に感じられてもおかしくないのに、そんな態度すらも可愛げとして受け取ってしまうあたり、姉という遺伝子のプログラムは罪深いなと思った。妹の頼みなら、それがどんなお願いでも、叶えてあげたいと思ってしまう。


「いいよ」

 わたしは微笑んで頷く。れんはその返事を聞く前にはもう動き出していて、携えてきたビニール袋から、菓子パンを取り出す。スーパーでよく見かける、四つ入りのドーナツ。それと、学校の敷地内の自販機で売っている紙パックのイチゴミルクも取り出して足元に置く。

 コンクリートに投げ出された不揃いのスカートとドーナツと紙パック。


「はい」

 れんは当たり前のようにドーナツを袋のまま手渡して、わたしに食べさせるよう促す。


 ドーナツなら怪我をしていない左手で食べられるのでは、と一瞬思ったけれど、一緒に時間を過ごせることが嬉しくてその問いからは目を逸らした。

 わたしはペりぺりと放送を破って、オレンジ色をしたドーナツを取り出す。ドーナツは砂糖にコーティングされて、テラテラとしていた。随分と甘そうだな、なんて思いながら、れんにそれを差し出す。

 れんはこちらに身を乗り出して、パクリとそれをかじる。大きな身体とは対照的に小さな一口。身体を斜めにしてわたしにもたれかかったまま、咀嚼する。


「おいしい?」

 れんは口をもぐもぐと動かしながら頷く。

「れんって甘いの好きだよね」

 そんなわたしの言葉には、首を横に振る。甘党だと思われるのが恥ずかしいみたいで、全力で否定する。しかし、ドーナツは中々口から消えず、言葉は付いてこなかった。

 

 たしかに、もっさりとしたドーナツを呑み込むのにはかなり時間がかかりそうだ。わたしはその間に自分の分の焼きそばパンを取り出し、一口食べる。すると、れんが咎めるような視線をよこす。

「私に集中して」

 そう言って、気まぐれな猫のように、わたしの肩に肩をぶつける。わたしは衝撃で少しよろける。すると、れんに肩を抱かれる。反射的に心臓が跳ねる。

「ありがと」

 顔を熱くしてそう言ってから、よろけた原因がれんであることに気づく。

「いいよ」

 わたしの肩を抱いたまま、涼しい顔でれんは頷く。いけしゃあしゃあ、という言葉がこれ以上に似合う振る舞いはないだろう。今日のれんはなんだか天真爛漫でわがままだ。いつもが嘘のように、小さいころよりもずっと。

 

 今日に限らず、最近のれんは様子がおかしい。冷たい声のトーンや、不愛想な態度はそのままに言動や距離感だけがコロコロと変わる。近すぎたり、もっと近すぎたり。

 

 けれど、その変化の原因に目を瞑って、現状だけを甘受しようとする自分がいた。だってれんが近くにいたら、寂しくないから。

 

 わたしは、ドーナツを再び手に取ろうとして、身体をねじる。スカートが重なるくらい、れんの身体は近くにあって、自由が利かない。

「えっと、動きづらいんだけど」

「嫌。あと、ドーナツじゃなくて、イチゴミルク」

 即座に否定される。なぜかはわからないけれど身体を離すことはお気に召さないらしかった。そして、ドーナツじゃなくてイチゴミルクをご所望された。

「はいはい」

 わたしは紙パックにストローを挿してれんに差し出す。れんはわたしの肩に頭を置いて、ちゅうっとそれを吸う。

 

 そのシュールな光景に、わたしは笑った。シュールという言葉に距離感の近さとか不可解とか色々と詰め込んで、笑うことでそれらをごまかしているようだった。そんな現実さえ、見ないふりをして。


 二人ぼっちの屋上、風が吹き抜けてもスカートは靡かなかった。

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