かき氷文化否定論

にわかの底力

かき氷文化否定論

 私の生まれ故郷は湘南にある。高校が海に近かったために、夏休み直前の午前授業が終わると直ぐ、砂浜ビーチに寄り道をしたものである。国道百三十四号線がすぐ真上を通るビーチの岸壁、夏以外の季節はどこからか流れ着いた流木やらプラスチック片やらが放置されてなんとも殺風景なものであるが、夏になると、幟(のぼり)や看板、それらが示す夏の風物詩、海の家に出入りする人々の水着に彩られ、途端に華やかになる。


 海の家という文化は、普段拝むことの出来ない百八十度広がる地平線の大パノラマに、現実を忘れさせられに来る観光客に、非日常感を演出する舞台装置としてはなかなか良いものだと思っている。なんたって海の家を挟んで向こう側は一般に人々が生活する居住区である。それを流木やコンクリート壁などの殺風景で区切るのでは心もとない。そうではなく、海の家というビーチ特有の文化で遮ることによって、日常と非日常の防波堤を上手いこと築いている。海の家がハレの日を演出することによって、日常を送る者は非日常を突っ張ねることができるし、非日常が日常に侵されることもない。お互いの距離感をよく理解し、その間に立って仲介の役割を果たす海の家という機関を、私は大層気に入っている。


 が、しかし。私は海の家でただ一つ、気に入らない箇所があった。私が砂浜を訪れるたびに目にするのが『氷』の一文字であるが、彼らの提供するかき氷、その文化だけは私は受け入れることができない。なんたって氷なんかに百ン十円払わなければならない。


 まだ社会に出たことがない世間知らずな私とて、物の相場を理解していない訳ではない。縁日の屋台やリゾートのレストランなど、そういった非日常感を演出する場では、演出料を料金に上乗せするのは常識の範疇であり、そこに訪れる客の財布の紐は緩いのだから、ぼったくり価格と言われても仕方のないような金額で相場が固定されてしまうのは納得がいく。そこへ、やれ向こうのスーパーの方が値段が安いだの、どこぞの方が同じ値段で良いものを売っているなどと値段交渉に入るのはナンセンスであることぐらいわかっている。


 だがしかし、そうであるとしても、私はかき氷のあの値段に納得がいかないのである。私が初めてかき氷を経験したのは、まさしく友人と訪れた海の家であった。友人は私に、『夏と言えば砂浜にかき氷、それ以外考えられない』などと大層なことを口にするものだから、私もかき氷の行列に友人とともに並ぶことにした。それまで私は、かき氷はただの氷の削りカスとしか思っていなかったものだから、成程確かに、冷やし中華はただののびた麺ではあるまいし、サーフボードはただの板ではない、然るにかき氷もただの氷でないのではないかと期待していたのだが、いざかき氷のカップを受け取って、ストローの先端を切り刻んでスプーン上に広げたもので突いて口に運んだところ、しっかりただの氷なのである。舌で感じるのは氷の上に掛ったシロップとかいう人工甘味料の味のみであった。これでは人工甘味料を飲んでいるのと大して変わらないではないか。おまけに底の方になると、シロップの味も薄れていよいよ薄っすら色のついたただの水と相違なくなり、虚しさが残った。何とか食い終わると、今度は頭を締め付けるような頭痛が私を襲ったのだ。


 なんたって人はこんなもんを好んで食らうのだ。タダであってもあまり食いたいとは思わない。何らかの罰ゲームで食わされるのであればまだわかるが、好んで食らう奴はマゾヒストかその類ではないかと疑ってしまう。

 聞けばシロップの味も、その色によって人間の味覚が騙されているだけであって、味は変わらないそうではないか。私の前に並んでいた客なんて、味の選択で二、三分悩んでいたぞ。その様子をにやにやと眺めていた販売員の女性には、その客の悩む姿がさぞ滑稽に映っていたことであろう。優しそうな顔をして意地汚い、私はあの歳で危うく人間不信に陥るところであった。


 何も海の家に限らず、的屋の屋台でも同じことは言えるのであるが、私はどうも、かき氷と同じ文化圏に属する綿菓子を否定する気にはなれない。綿菓子とて砂糖を削ったものであるから、砂糖をただ齧っているに相違ない。私の母はよく、近所の神社─その神社は全国的に名の知れた、有名な神社であった─の夏祭りに私を連れていったとき、屋台の食い物をせがむとどれか一つだけ、好きなものを選ばせてくれたが、その中で綿菓子だけは頑なに拒んでいた。なんでも、あんなほんのちょびっとの砂糖に原価の百倍あろうかという金を払うなどばかばかしい、おまけに手や口周りが砂糖でべとべととし、ふき取るのが大変であると、そういった主張であった。


 原価の何十何百倍も吹っ掛けられ、おまけにその味覚自体に何の新鮮味もないといった点で、その二点は同一の文化圏に属していると言えなくもないかもしれぬが、私にとって祭りという季節に綿菓子という行事はなかなか重要な位置にあった。これは全く好みの問題であり、故にこれら二つの相違点に関して論を立てたところで建設的でない。よって簡潔に結論だけ申すと、氷に食い物としての価値があるか、ただその一点に受け入れがたい文化が存在した、ただそれだけである。


 夏というのは行楽行事が多い季節である。故に、人間の金銭感覚が一時的に狂ってしまうのも無理はない。日本の夏は過酷であり、何事を行うにも体力を奪われる。だからと言って家の中から動かぬ訳にもいかぬから、昔の日本人は夏に行楽を沢山生み出し、否でも応でも活動しようとしていたのかもしれない。それが現代では、大方の事は家の中で済んでしまう。趣味も買い物も、なんなら仕事でさえリモートワークが受け入れられつつある。そんな世の中ではむしろ、無理に家から出ない方が正解ではなかろうか。外界の暑さなど忘れ、涼しい部屋の中でのんびりと過ごしていた方が、命の危険も少ないはずである。


 しかし、そうなってしまっては困るのが商い人である。人が外を出歩かないようでは、販促のしようがない。そんな状況が一月も続いてみれば、日本の懐は夏の暑さに反して氷河期を迎える。夏が訪れるたびに日本の経済が低迷しては、困るのは国であり国民である。だから日本の社会は、夏の行楽行事を伝統という美しい言葉で飾り付けて、本来の目的での必要性が無くなった昨今でも続けているのだ。我々日本人が持っている、伝統というものを無条件で飲み込む性癖にしっかり組み合わさった、何とも賢い戦略である。そうした伝統の末端にかき氷があるものだから、日本人はかき氷という最悪な食い物を、無条件で飲み込んでしまうのだ。私はこうした日本の伝統の恐ろしさを、かき氷に締め付けられる頭を押さえながら、この時初めて思い知ったのだった。

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