07
整然とした通りを突っ切って辿り着いた旧港湾区は、不気味な静けさに包まれていた。
インフラ整備の流れから取り残された旧港湾区は、錆び付いた倉庫とコンテナが並ぶ資材置き場と化していた。ひび割れた路面に倉庫の影が何重にも重なって落ち、周囲はどんよりと薄暗い。
廃油混じりの潮風が吹き抜ける中、登悟たちは慎重に歩みを進める。
「……あれか」
詠子によってマークされた倉庫は、旧港湾区の中でも奥まった位置にあった。現在ではほとんど使用されていないらしく、案内表示が判別できないほどに路面が荒れていた。
灼が作業員用の出入り口を解錠する間、登悟は周囲の気配に意識を集中していた。しかし人間どころか動く物の気配さえなく、周囲に響くのは潮風が通り抜けるごく僅かな風切り音のみだ。
やがて灼が「開いたわ」とこちらを振り向いた。
登悟は最終確認として実篤の方を振り向くが、彼の同行の決意は固いらしい。登悟は溜息を吐きつつ、身振りで自分たちの後ろから絶対に出るなと示し、慎重に扉を開いた。
古びた連絡通路を抜け、倉庫へと続く鉄扉の前に到達する。鍵が掛かっているかと思い足を止めるが、灼は首を振った。どうやら施錠されていないらしい。
登悟は警戒心を強めつつ、慎重に扉を押し開けた。
そうして倉庫内へと入り込んだ瞬間だった。
身構える間もなく、四方から鋼鉄の気配が唐突に現れた。登悟は反射的に手を懐に伸ばしかけたが、威圧するように突き出された銃口によって動きを止めざるを得なくなる。目だけを動かして薄暗い倉庫内を見渡すと、十数人の男たちが、およそ二十メートルほどの距離を開けて半円状に布陣していることが分かった。背後にいた灼と実篤も、やはり登悟と同じように動きを封じられていた。
やがて登悟たちの目の前で、存在を誇示するように硬質な足音が鳴った。現れたのは顎下に拳銃を押し当てられた百合香と生体hIEの姿だ。
「メディ!? それに百合香まで……!」
「実篤さん――」
声を発しかけた百合香が、銃口を押しつけられて口を噤む。メディと呼ばれた生体hIEは、人質に取られた人間の行動を模倣するように、恐怖の表情を浮かべて微動だにしなかった。
そんな二人の間から、一人の中年の男が歩み出てきた。装備こそ周囲の人間と同じだが、その鋭い眼光や隙の無い立ち振る舞いが、男が戦闘職種の人間であることを示している。
「護衛にしてはなかなか鼻が利くようだ。行動が迅速な点は評価できる。しかし……」
男はざらついた声で言うと、実篤を見て口元を歪ませた。
「戦えない人間が一人混ざっているようだ。神宮寺実篤、お前のそれは勇気ではなく無謀と言うのだよ」
「二人を解放しろ……!」
実篤は震えを押し殺した声で言い放った。
男は実篤の怯えを正確に見通して、嗜虐的な笑い声を上げる。
「それはお前の態度次第だな。……ああ、そう怖い顔をするな。別にお前の立場や財産を侵そうというわけではない。ただ一点、我々の計画に協力さえしてくれれば良いのだ」
「計画……?」
「知っての通り、我々はhIEに侵食されつつある人間社会の行く末を憂慮していてね。君のhIEには、人類の尊厳を取り戻すための布石の一つになって貰いたい」
その成り行きに、登悟は軽い違和感を覚えたが、恐怖で頭が埋め尽くされている実篤は気付かない。
「何をさせるつもりだ」
「君と明智友梨香は近々式を挙げるらしいな。かの神宮寺の嫡男と明智財団の娘の結婚式だ。メディアの注目度も高いだろう。……そこを、君が入れ込んでいるこのhIEに襲撃させる」
「な――」
「無論、単なるhIEの不法使用など聞き流されて終わりだろう。だが神宮寺実篤のお気に入りのhIEという文脈と、結婚式という幸福の象徴を攻撃するという意味が合わされば? hIEの危険性は、少なくない人々の記憶に刻まれるはずだ」
「馬鹿げている。その程度で人々の意識が変わるものか」
「一件だけではそうだろうな。だが言ったはずだ、布石の一つだと。短期間に象徴的な意味を持つ事件が立て続けに起これば、目を逸らしていた人間も気付く。道行く先々で出会う人型のモノは、その実、全くもって人間とはかけ離れたロジックで動いているのだということを」
男は熱に浮かされるように言って、実篤一人に視線を向ける。
「理解して貰えたかな。何も君の財産を欲しているわけでも、ましてや命を奪おうとしているわけでもない。むしろ我々は、君たちが持っている社会的地位と共に歩んでいきたいと思っている。承諾してくれるのなら、明智百合香を傷つけずに解放すると約束しよう」
登悟の中で、ようやく違和感が形を伴った。
百合香の安全との交換条件であるならば、生体hIEを人質にする必要などない。
そもそも、hIEを人質にするなどという異様な行為が、最初から成立している時点で不自然だった。一般的にhIEは単なる道具――高級だが便利な家電で、それ以上のものではないのだ。
なぜ男たちは、あの生体hIEが、実篤にとって特別な存在であることを知っていた?
双眸を鋭くする登悟の背後で、実篤は口を開く。
「……それを受け入れたなら、メディは助からないじゃないか」
「最愛の彼女と単なる道具。比較にもならないと思うが?」
まるで台本を読み上げるように言った男に、実篤は沈黙した。
だが。
「……駄目だ」
「何?」
「僕にとっては……メディは大切な存在だ。彼女がいなければ今の僕はない。利権を得るために外ばかり見つめる父と母や、懐柔しようとしてくる大人たちから、僕の心を守ってくれたのはメディだ。彼女がいなければ、神宮寺実篤の心はとうの昔に死んでいた……!」
実篤は毅然とした光を瞳に宿し、登悟を押しのけて一歩前に出た。
「金も地位も何でもくれてやる。何なら僕の命でもいい! だから――彼女たちは傷つけずに解放してくれ!」
そう言って頭を下げる実篤に、場の空気が意表を突かれたように静まりかえる。
「……貴方はどこまでも、私とそれを同列に扱うのですね」
その静けさを破ったのは、反hIE主義の人間ではなく――顎下に銃口を突きつけられていたはずの百合香だった。
今の彼女は、いつの間にか拘束を解かれ、事態を飲み込めない実篤を冷酷に見据えている。
「元より神宮寺と明智の婚姻に恋心など不要。私もそう弁えていた。なのに貴方は無遠慮に私との距離を詰め、その無差別な優しさで私の心をこじ開けた」
百合香はこれまでの貞淑さとはかけ離れた、壊れかけた微笑みを浮かべている。
「そうしておきながら――その優しさに報いようと、必死に努力をした私を側に置きながら、貴方はどこまでも私とそれを同列に扱い、決して改めようとしなかった。単なる道具以下だと、いつ捨てられるのか分からない恐ろしさが、貴方に理解できて?」
「な、何を言って――」
「私が愛した貴方は、どうやら幻だった」
百合香はその瞳に、見間違えようのない殺意を宿して実篤を凝視した。
「ならば現実の貴方を葬り、幻の貴方と婚姻を挙げるまでです」
狂気を孕んだ百合香の言葉に、これまで実篤を脅迫していたリーダー格の男は歪んだ苦笑を浮かべた。
「仕方あるまい。布石というなら、明智というパトロンを手に入れた方がよほど合理的だ」
その声を合図にするようにして、周囲の男たちが小銃を構え直す。
明確な殺意を持って突きつけられた銃口の群れに、実篤は困惑と恐怖が入り交じった表情で口を開く。だが掠れる呼気が漏れるばかりで言葉が出てこない。
その実篤へ、百合香は酷く晴れやかに微笑みかけた。
「さようなら実篤さん。――心の底から、愛しています」
百合香がそう告げると同時に、登悟たちの周囲で耳を聾する銃声が連続した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。