帰省Ⅱ

 僕は(小学生の時、私は父さんに言われて一人称を僕と言っていた)少し不機嫌だった。その日、僕は学校で中村先生に叱られたからだ。きっかけは国語の授業中、家族についての作文を書くことになった時のことだった。

 僕は渡された原稿に名前を書き、いつも真面目で優しい父さんと母さんについて面白かった出来事を書いていく。楽しかった出来事を思い出して書くだけなんだから、手が止まるはずがない。

 僕を見て、中村先生が「ひろくん、さすが!家族のことよく見てるね」と褒めた。

まあまあ、僕の自慢の家族だ。侮られては困るってもんだ。僕はあっという間に400字詰め原稿を埋めてしまった。

 ふと、隣に座っている田村君を見ると、彼がすこしも書けていないことに気がついた。

「どうしたの?書けてる?」

僕が尋ねても、短くなった鉛筆を指先でいじって、僕の方さえ見ようとしない。田村君は普段から無愛想な人で、何事にも面倒くさがりだった。忘れ物が多かったし、服もヨレヨレでやる気がないのだ。

「なんなら手伝ってあげようか?ぼくこういう作文得意なんだよね」

田村君が何も反応しないので、ちょっと貸して、と言って僕が彼の原稿用紙に手を伸ばすと、すんでのところで田村君は紙を自分の方に引き寄せた。

「余計なお世話だ」

田村君は、殊、僕に対しては当たりが強い印象があった。いい機会だ、僕が手伝って、少し田村君にも心を開いてもらおう。

「でも、そんなこと言ったって、一文字も書いてないじゃないか」

「仕方ないだろ、書くことがないんだから」

「書くことがないってことはないだろう?父さんの仕事でも母さんの話でも、なんでもいいんだよ?」

「ハッ、いいよな。ひろとは書くことが多くて」

田村君は嫌味に言った。僕は若干眉をひそめる。

「何が言いたいの?ねえ、田村君てそうゆうところあるよね?良くないと思うよ?」

「何?怒ってんのか?ひろとはほんとにお嬢様みたいなやつだな」

僕はいよいよ怒りが湧いてくる。

「ああ、でも可哀想なのは田村君の方だと思うね!こんなヨレヨレのTシャツを着て、鉛筆も新品じゃないじゃないか!」

僕は声を荒げた。幸い、皆んな口々に喋っていたので、他の人が特に気に留めている様子はなかった。

田村君はしばらく僕を睨むように見つめていた。僕は言い過ぎたと思った。そして何を言い返されるかと思ってビクビクしていた。しかし、田村君は結局睨んだだけで、黙って視線を原稿用紙に落とした。

「ごめん」

僕は田村君に謝る。

「何が?」

淡白な物言いに、僕は焦って取り繕う。

「いや、その、ちょっと言い過ぎた…」

「何を?」

「いや、だから…」

「もういいよ。もう何も言わないでくれないか」

僕は黙って自分の原稿に向き合ったが、申し訳なさと気まずさで席を離れて友達のところに行った。


 放課後になって、僕はやっぱり申し訳なくて、もう一回ちゃんと謝ろうと思った。田村君はもう帰ってしまっていたので、僕は友達に聞いて彼の家まで行くことにした。

 彼の住んでいるアパートのチャイムを鳴らすと、部屋の中からドタドタという足音が廊下まで聞こえてきて、バタンッといって扉が開いたかと思うと、黄色い帽子をかぶった女の子が飛び出してきた。

「うわっ」

思わず声が出る。

「こんにちは!どちらさまでしょうか!」


 活発なその女の子は田村君の妹だった。

「はじめまして。1年1組16番の田村あかりです」

「4年2組の河合ひろとです。よろしくね」

田村君の家は、少し狭いような気がしたが、おもちゃや段ボールが氾濫していて少なくとも退屈することはなさそうだと思った。田村君の家は、日が出ている間は電気をつけない主義であるらしく、曇り空の下で、部屋全体がじめじめした薄暗さに覆われていた。

「何も上がってくることはないだろ。なあ、もう分かったから帰ってくれよ」

僕があかりちゃんと、膝下ほどの高さの机を挟むように対面してソファに座っていると、キッチンの方でお茶を汲んでいた田村君が言った。

「にーに、なんでそんなこと言うのぉ?河合君が何を言ったってゆーのよ」

「おまえはもういいから、外で遊んでろよ」

「またわたしにどっか行ってろって言うんだね」

「あー、はいはい、さよならさよなら」

あかりちゃんは田村君にしかめっ面を見せながら彼女の部屋に入っていった。田村君はその様子をしっかりと確認した後、僕の方に向き直った。

「で、何?用があるなら早くしてくれない?たまたま母さんがいないからいいけど、鉢合わせても知らないけど」

「あ、うん、分かってる。僕は謝りに来たんだ」

僕はそう返事すると、意を決して頭を下げる。

「ごめん!今日のことはほんとうに僕が…」

「僕が?」

「知らなかったんだ」

小さな間が空いた。

「そうか」

田村君は軽く頷く。田村君はすこし悲しそうな顔をしたが、非常に微妙な間だったので本当にそんな顔をしたのかは分からない。

「僕は…色々と…考えがなかった」

僕は田村君が何を躊躇っているのかよく分からなかった。昔、母さんに言われたことを思い出す。しっかり頭を下げて謝り、自分の非を認める。僕はその通りにした。きっと許してくれるはずだ。

田村君は眉間に皺を寄せ、怪訝そうな顔をした後、ため息を吐いた。

「知らなかったんじゃあ、しょうがないよな」

僕は何も言えない。しかし、本当は口に出して認めるべきだ、僕が当たり前だと思っていたことは田村君にとっては違ったこと。この家に来て見れば…いや、そんなことしなくても最初から分かっていたのかもしれない。でも、口には出せなかった。何という愚かさか、僕はこの期に及んで田村君に非を認め、弱みを晒すことを躊躇っていた。

「じゃあ、もういいか。用は済んだろ」

「ああ、うん」

「今日はたまたま母さんがいなかったから良かったけどさ、もう勝手に二度と来るなよ」

「ごめん」

僕は何か引っ掛かるような気がしつつも、帰ろうと思って席を立ったその時だった。突然足下に茶色い痩せ型の犬が寄ってきた。ビーグルによく似た毛の短い犬のようだったが、それにしては色も茶一色で、足も短かった。

「ほら、ラッキー、こっち来い」

田村君が手を振って、ラッキーと呼ばれたその犬を引き寄せる。僕の家でもボルゾイを飼っており、僕のボルゾイもかわいいが、ラッキーのような小型犬にも憧れがあった。

「かわいいね」

「うん」

「なんていう犬種なの?」

僕が聞くと、田村君はラッキーから目も逸らさず、事も無さげに言った。

「雑種だよ。俺と同じ」

僕は一体どうしたのだろうか?僕は田村君のこの言葉を生涯忘れることはないだろうという気がした。

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