帰省
雲居晝馬
帰省Ⅰ
今日の朝方に帰省して、いま、もう陽が空の真上を過ぎるほどの時刻になった。のんびりで変化に乏しい田舎では、時間の進みが早い。一秒一秒は間延びして穏やかだが、意識は徐々にぼやけ、気付くと数時間、何もせずに終わっているということがよくあるのだ。
爺ちゃんが死んだと連絡を受けたのは一昨日の深夜のことだった。急な報告であり、私とて重要な仕事の渦中にあったが、なんとか昨日中でかたをつけると、夜中の高速道路を数時間ほど車を走らせ、飛んで帰ってきたのだ。通夜は親戚のほうですでに執り行ってくれており、告別式と火葬は午前中に済ませた。親戚とはいうものの、私の両親はふたりとも既に亡くなっているし、母さんには姉妹がなかったので、今回のことで手助けしてくれたのは爺ちゃんの兄弟とその家族であった。
これでついにひとりになってしまった、と私は思った。私はもはや自身の少年期に回帰するための手掛かりをすべて失ってしまった。私が私である理由はもう私の中にしかない。いや、と私は気付く。そうだ、まだひとつだけ私には私を私たらしめる実際の根拠があったのだ。むしろ、私は今回まさにそのために帰ってきたと言ってもいい。私の家こそ、私の回帰すべきひとつの根拠だった。
少し斜めに傾いた日差しが秋の居間に横たわる。しばらく来ていなかったのでもう少し埃が溜まっていると思ったが、テーブルやテレビは丁寧に掃除され、おそらく爺ちゃんが死ぬまで大事にしてくれたのだと分かった。すべてがあの日のままに保存されていた。
私は子供部屋の棚を開け、こっそり書き溜めていた、いつかの日記を探す。しかし、いくら探しても日記は見つからない。私は勉強机に座って、その引き出しを調べてみると一番下の引き出しの底の裏側にガムテープで貼り付けてあった。なんでこんな所に、と思ったが、そういえば確かにこのようなわかりにくい場所に隠しておいたのだ、という気もした。
「ひろと君」
一瞬、私の名前を呼ばれたような気がして振り返る。勿論、誰かがいるわけじゃない。しかし、この家に馴染んだ私の大切な両親の気配が今でもここに残っている気がして、なんとなく幸せな気持ちになった。
私は日溜まりになっているベッドに座ると、小さな埃がフワリと舞って、キラキラと白く光りながら陽光の中で漂った。少しの間、私の意識はその埃に囚われていた。しかし、すぐに意識を取り戻すと、ベッドに寝転がって日記を開いた。
小学生の頃、私には両親にも秘密にしていることがふたつあった。
ひとつは、私は父さんと母さんが何者であるか知っていたことだ。ふたりは私には知られてないと思っていたみたいだが。何者、などと表現すると、いかにも仰々しく聞こえるが、実際そのように表現するのが適格なのだ。父さんは財界では知らぬものはいない大企業の御曹司であり、母さんは(私が生まれてからは引退したが)割合知名度のあるアナウンサーだった。私に余計な負担を背負わせないためだろう、ふたりは私に自身の経歴を語ることは一度もなかったが、定期的に訪れる来客や、頑なに過去を語ろうとしない様子を見て、子供心に思うところがあった。
17年前、私が12歳の時に両親は自動車事故で亡くなった。母さんは地方都市にある生まれ故郷で、現役の時の様子を感じさせない厭世的な生活をしていたし、父さんは母さんを憚ってあまり過去の話をしなかった。だから、私が実際に母さんと父さんの職業を知ったのはその時だった。
そして、もうひとつの秘密は、この家に関する奇妙な事象についてであった。その事象は当時小学生の私の心を支配し、たびたび私の枕元にまで忍び寄ってきた。私の幸せな家庭に蔓延る不穏の種は、指先にできたささくれみたいに、いかなる時にも薄い影を落とし、どこか釈然としない苛立ちで私を弄し続ける。
なぜ私はこの日記を、当時にしてこれほどまでに厳重に隠しておかなければいけなかったのか。その理由について、この秘密はその深いところに根ざしているのである。
小学生の頃、私はたまにひとりで家に留守することがあった。父さんは朝早く仕事に出かけ、母さんは基本的には専業主婦だったが、午後には友達と一緒に食事をしたり、街のフィットネスクラブに行ったりすることがあった。母さんは、私が帰ってくるより前に用事を済ませておくことが殆どだったので、ひとりで留守することは少なかったが、それでもたまに予定がうまく噛み合わなかった時など、物音ひとつない閑静な住宅街の一軒家に小さな子供ひとりで留守番しなければいけない時が何度かあった。
とある日(それは4年生の11月の欄に書かれていた)の日記記録について、私の記憶と共に回想して語ってみよう。
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