帰省Ⅲ


 その後、僕は家に帰って宿題をし、母さんが切ってくれた梨を爪楊枝でつついて食べた。七時頃、湯船に浸かっている僕に母さんが声をかけた。

「ひろと?母さんちょっと用事で出かけちゃうけど、ちゃんと留守してるんだよー?」

その声に僕はすこし憂鬱になる。またか。僕は留守番が嫌いだった。

ひとりでいるのが嫌という訳ではない。そうではなくて、また別の、不気味なその事象に、僕はひたすらに怯えているのだ。

しばらくして、「じゃあ行ってくるねー」と言う声が聞こえた。

玄関の扉の閉まるガチャリという音が聞こえると、僕は一層怖くなって湯船に顔を沈める。

 僕にはふたつ秘密がある。ひとつは母さんと父さんが隠そうとしている僕が生まれる前の経歴。もう一つは…それはあまりにも突拍子もない。しかし、信じてほしい。これは偽りない事実なのだ。

 「この家には幽霊が取り憑いている。」

あなたは今すこし笑ったかもしれない。しかし僕はずっと昔からこの家でその脅威に晒されてきた。だからこそ、幽霊の存在に絶対的な確信がある。この家には幽霊が取り憑いている。

最初に僕がその存在に気付いたのはもっとずっと幼児の頃で、記憶も朧げだった。実際、それが本当の記憶かも怪しい。その記憶の中で、僕はまだ指を咥えてしゃぶっているような赤ん坊だった。言葉も喋れず、考える事もできない純粋な映像記憶。僕は客観的にその赤ん坊を見ている。赤ん坊の背後から人型の靄がギシギシと音を立てて忍び寄ってくる。靄の顔の部分は暗くてよく見えない。いや、少し違うな。その場全体が薄暗かった。唯一の灯りは赤ん坊の背後から来る光だけだ。靄はさらに赤ん坊に近づく。そしてついに赤ん坊の背後まで来たかと思うと、その靄はスッと赤ん坊の横を通過し、背中が見えたかと思うと、瞬間、靄は立ち所に消えてしまったのだ。

以上が、僕がはじめて(少なくとも覚えている内では)体験した幽霊の出現だった。

そして、僕はそれから何度も幽霊の出現に遭遇した。幽霊は決まって家に僕ひとりになったタイミングで現れ、十分ほど家の中を彷徨いた後、一階のどこかに消えていく。

小さい頃は、この家は取り憑かれているなどとよく騒いだものだったが、なんでもひとりの時にしか現れないので、母さんも父さんも真面目に取り合ってくれなかった。また、小さい頃はひとりになるのが怖くて、「行かないで」とみっともなく母さんに抱きついたものだが、今は僕も4年生ということで、我慢できていると思う。

長年の経験で害をなす事は無いので、ギシギシというあの不気味な足音が聞こえてきたら僕は目を瞑り、耳を塞いで、布団に包まることにしている。

今回は運が悪い、と僕は思った。風呂に入ってる時に出かけられては、僕はどこに隠れればいいんだ。第一、風呂から上がって着替えようにも、その間に鉢合わせるかもと思うと、怖くてとても出られない。僕は湯船に鼻先まで浸かってブクブクと小さく息を吐く。泡が波紋になって広がり、水面に映る電球の灯りをゆらゆらと揺らす。窓の外は暗く、また、曇りガラスの向こうの脱衣所も電気が付いていないので、この風呂場だけが暗闇の中にポツンと孤立している感じがした。

 その時だった。洗面所の方で、確かにギシギシという音が響くのが聞こえた。


 奴だ。幽霊だ。思わず、背筋がゾワッとして、鳥肌が立つ。筋肉が強張る感覚。お湯に浸かっているというのに冷や汗が流れる。昔に比べれば少しは慣れたものの、怖いという気持ちには変わりない。自分の知らぬ間に、正体不明のない何かが歩き回っているというのは、そう容易く慣れるものではない。

 足音は不規則に家中を物色して廻っているようだった。僕は耳を塞ぎ、今にも泣きそうな顔になる。眉間に皺を寄せ、真っ暗な脱衣所を曇りガラス越しに見つめる。風呂場の暖房の音、どこかの換気扇の音、そして…。どれだけ強く耳を塞ごうとも、足音は驚くほどはっきりと聞こえた。足音は数分ほど、いや、あるいは数十秒だったかもしれない。家の中を歩き回った後、ついに脱衣所の方に近付いてきたようだった。

ギシ…ギシ…ギシ…

 近付いて来るのが手に取るようにわかる。やがて、その足音はある地点まで来て、ぴたりと止まった。僕は薄目で曇りガラスを見る。案の定、そこには人型の何かが薄暗い中に直立していた。それは真正面からこちらを向き、立ち尽くしているようだった。僕は慌てて目を瞑る。怖い怖い怖い怖い。心臓が太鼓の音みたいに激しく鼓動しているのが分かった。心臓の音で気づかれないかと不安になり、息を止める。僕は必死で耳を塞ぎ、目をかたく閉じた。

 そのまま数分が過ぎた。しばらく曇りガラスの前でとどまっていた足音はまた動き出し、そしていつの間にか消えてしまった。

 僕は恐る恐る湯船を抜け出し、風呂場の曇りガラスを音を立てないように開ける。まだ幽霊が歩き回ってる可能性は勿論あるが、なんとなく今日はもう完全に消えてしまったという気がした。僕はそれでも一応音を立てないように服を着替えて靴下を履き、音を立てないように階段をのぼって二階の自分の部屋に入った。観たいテレビ番組があったが、録画してあったので今は我慢することにした。僕はベッドに寝転がり、黙って壁を見つめて耳を澄ましていたが、特にその後音がすることはなく、僕はそのまま寝落ちしてしまい、次に気づいたのは、帰宅した母さんが夕食のために僕を呼んだ時だった。

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