帰省Ⅳ
私はそこで一度ふぅ、と息を吐いた。日記を傍に置き、手を組んでグゥと伸びをする。なんとなく血の巡りが良くなった気がして気持ち良い。私は勢いをつけて上体を起こし、あぐらをかいて座る。
日記は雄弁で、当時にしてよく書けたものだったと私は感心した。勿論、小学生の日記であることには変わりないので、当時の記憶を掘り起こし、補完しなければ意味がよく取れない箇所が幾つかあったが、まあ十分及第点だろう。
私は一階に降りると、予め冷蔵庫に入れておいたお茶のペットボトルを取り出して飲んだ。ずっと同じ姿勢だったので少し疲れた。しばし休憩し、もう一度二階にあがる直前、ふと洗面所の鏡が視線に映った。この鏡は、私のこの日記において、結果的に大きな意味を持つことになる。そうだ、そういえばそのことについても少し補完しておく必要がある。この鏡は玄関から入った時にまっすぐ見える位置にあるのだ。
この家に入ると、まっすぐ長い廊下が奥まで続いている。右手前にリビングがあり、左手前に和室がある。そして左奥に脱衣所、および風呂場があり、脱衣所には廊下の突き当たりにある洗面所からしか行けない。ちなみにリビングの奥にはキッチンがあり、その隣に階段が設置されている。また、二階には私のものだった部屋と父さんと母さんの寝室がある。
補足すべき間取りについてはこんなところだろう。私はペットボトルを持って再び部屋に戻ると、今度はちゃんと椅子に座って、日記を開いた。日は若干陰り始めていたが、まだまだ夜までは余裕があった。
日記において次の記述は5年生の4月だった。
その日、田村君は学校を休んでいた。あの日以来、頻度こそ低いものの、田村君はむしろ彼の方から僕に話しかけてくれるようになった。どうやら彼は僕を面白がっているらしかった。あまりいい気はしないが、仕方ない。僕があの日、知らず知らずのうちに放ってしまった言葉の結果、いまの僕らの関係があるのは間違いない。
先生は田村君の休んだ分の宿題を彼の家まで届ける仕事を僕に押し付けた。僕と田村君は別に仲が良い訳ではないのだが、田村君はもともと人と関わらないタイプだし、田村君の家に行ったことがあるのは僕だけだったので、先生は面倒事を押し付けてきたのだ。
放課後、僕は面倒臭いな、と思いながら、とぼとぼ田村君の家に向かう。彼の住んでいるアパートは、学校を国道沿いに進み、橋を渡ったところにある団地の、一番端にある。国道沿いはそれでも人は歩いているのだが、一歩橋を渡ると、人の気配はもう殆ど無く、人のいた名残といえば団地のベランダに所々洗濯物が掛かっているだけだった。
駐車場には埃を被った銀色の軽自動車が一台と、何台かの自転車が停められている。ふと、橙と白の猫が目の前をパッと走り去った。僕はその猫の行方を見つめていると、錆びれ色褪せたベンチにうずくまり、泣いている少年を発見した。僕は一眼でそれが田村君だと分かった。
どうしたんだろう。心配になって駆け寄る。彼はすぐ僕に気づいたようだった。顔を上げると彼は目を赤く腫らしており、僕は一瞬怯んでしまった。田村君は僕を見つけるとアパートの方に走り去ってしまって、僕も追いかけないであげた方が良い気がした。
僕はしばらく彼の座っていたベンチに座って空を眺めていた。今日も空は曇っている。
十分時間を置いて、彼の部屋のチャイムを鳴らした。前回は数秒もせず妹のあかりちゃんが出てきたが、今回は数分かかって見知らぬ大人の女性が出てきた。
「えっ」
僕は驚いて声が出る。
「どちら様ですか」
その女性は上半身はピンク色の下着で、下半身は灰色のだるいパジャマを着ており、煙草を咥えていた。僕を見下ろし、とりつく島もないような印象だ。
「た、田村君いますか」
僕はすこし緊張して言う。
女性はたしかに美人だったが、年齢は10代後半と言われても、30代前半と言われても納得してしまうような見た目をしていた。
「あの、田村君の宿題を持ってきたんですけど…お姉さんしかいないんだったら…」
僕が言いかけると女性はかすかに眉をひそめる。
「お姉さん?」
「え、違うんですか?」
僕の反応が面白かったみたいだ。女性はハハハと笑う。
「私はあいつの母親だよ。あいつのただひとりの親」
「ああ…」
僕は言葉に詰まる。僕の中の母親のイメージと、田村君の母さんはまったく異なっていた。違和感にかるく顔をしかめる。
また、ただひとりの親、という彼女の言葉もすこし引っ掛かった。
「えっと、じゃあ、お母さんに渡しておきます」
僕はお邪魔しました、と言って廊下に出る。開けっ放しだったドアを閉めると、田村君が立っていた。
「ちょっと来いよ」
彼は僕を見て言った。僕は前回、彼が二度と勝手に来るなよ、と言ったのを思い出した。
田村君は僕を屋上に連れて行った。お互い会話はない。
「あれは本当の母さんじゃない」
沈黙を破って田村君は言った。
「あんなのは本当の母さんじゃない!」
田村君は母さんのことが嫌いなんだ、と思った。
しかし僕は黙っている。こういう時、何という言葉を選べば正解か分からない。だから僕は何も言えない。言わない。
「俺は…誰の子でもない」
田村君はそう言ってうずくまる。
僕は田村君がなぜ母さんを嫌っているのかはよくわからなかった。でも、そんなことはどうでもいいと思った。僕はゆっくり田村君の方へ近寄る。彼の隣に座り、顔を落として屋上のコンクリートを眺める。田村君は拒絶しなかった。
田村君はしばらく後で口を開く。
「俺には…父親がいないんだ」
「分からないって、母さんは言ってた。俺は、なんでこのじめじめ場所で暮らさなければいけないのか、ずっと疑問だった。おまえはいいよな、おまえは俺に無い物を生まれた時から持ってるんだから」
随分と嫌味な言い方だったが、僕は言い返すべきか迷ってしまう。
「なんか言えよ」
僕は少し悩んだあとで、絞り出した言葉を丁寧に紡いでいく。
「僕は…僕は何もできないけど…少なくとも僕にはあんな可愛い妹はいないよ」
僕は顔を上げ、田村君の顔を真正面から見つめる。田村君は少し驚いているようだった。少し沈黙があった後、彼はフッと笑って僕の肩に手を回す。
「確かにな。そうだ、その通りだ。俺は俺で、おまえにはない幸せがあるのかもな」
田村君は微笑む。
「ひろと、おまえにしちゃいい返事だったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
僕も何だか嬉しくなって田村君の肩に手を回す。
「いやさ、実は母さんには定期的にお金をくれる男が何人かいるんだけどね、今日学校を休んだのは、その男が俺らのために金を出したい、みたいなことを言ったからなんだよね。世の中には変わった奴もいるもんだよ。母さんは俺らはニコニコして座ってるだけでいいからって言ったけどよ、俺はそれがすごい悔しかったんだよなぁ」
田村君は僕に知ってほしい様子だったし、また、彼自身に言い聞かせるようにも見えた。
「俺がやっていることは犬の芸と同じだ。飼い主を喜ばせて餌を貰う犬」
僕はその時ハッと気づいた。彼が以前言っていた言葉の意味。「雑種だよ。俺と同じ」……。僕は悲しくなって思わず俯く。
「どうした?大丈夫か?」
僕は思い切って言う。
「田村君が前に言った言葉……僕と同じ雑種って…」
田村君はそれを聞いて、あぁ、という反応を見せる。
「たしかにそんなこと言ったな。でも、おまえもおまえだぜ」
「?」
「つまりな。おまえはおまえで、血統書付きの馬鹿な犬ってことだ」
僕は一瞬ポカンとしたが、それから確かにその通りだと思って笑った。田村君も僕に釣られて笑う。
「僕は血統書付きの馬鹿な犬で、田村君は雑種の馬鹿な犬。きっと面白いコンビになれるはずだよ」
「そうだな。って、誰が馬鹿だ!」
「そっちこそ!」
僕と田村君はその場で少しじゃれあった。もし他の人が見ていたら本当に犬のじゃれあいに喩えそうだと、僕は客観的に思った。
帰り際、田村君は僕を橋の先まで送って行ってくれた。
「田村君、じゃあね」
僕が言うと田村君は少し不機嫌そうな顔をする。
「なあ、ひろと。もう田村君なんてよそよそしい呼び方しなくていいよ」
「え?」
「あきらで、いい」
その瞬間、ふと、心地良い風が僕らの間をすり抜けて行った気がした。
僕は笑う。
「わかった。じゃあ、あきら、じゃあね」
「じゃあな、ひろと」
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