帰省Ⅴ


 家に着いた時、溜まっていた疲労感が津波のようにどっと押し寄せて、僕は倒れ込むようにベッドにダイブした。何も考える気力が湧かない。混沌とした眠りの海に身一つで放り込まれたようなそんな感覚。ゆっくりとすべての雑念が、深い海の底に音もなく吸い込まれて行くようだった。


 次に気づいた時、僕は先程と同じ体勢のままぐったりベッドの上で眠っていた。起きあがろうと思って体を動かしたその瞬間、全身に雷のような痺れが走り、僕はそこから一ミリたりとも身体が動かせない。眼だけでも開けようとするが、身体が言うことを聞かない。口も動かせない。混乱、困惑、焦燥。何か不味い事態になっているらしい。徐々に焦りが大きくなる。呼吸が荒くなり、動悸が激しくなる。一体どうしたんだろう?これが金縛りだろうか?何も見えない。動けない。怖い。なぜか部屋の電気が点いておらず、視界は先のない黒いカーテンによって塞がれている。どうにかしてこの非常事態を母さんに伝えなければと思ったが、んー、とか、あー、みたいな声が喉の奥から漏れ出て終わった。自分の力では何もできない。その事実が冷静な思考を鈍らせ、焦燥を加速させる。おそらくドラム缶に入れられ、コンクリートを流し込まれたら、このような感覚になるに違いない。

 ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…

自分の呼吸の音が鮮明にわかる。全神経を唯一の感覚器官の耳に集中する。僕の息する音、換気扇の音、除湿機の音。それ以外にはどんな音も聞こえない。

あるいは母さんは僕が寝ている間にどこかに外出してしまって、まだ帰っていないのかもしれない。

ある恐ろしい仮説が脳裏をよぎる。僕は必死でその仮説を無視しようとするが、逃れることはできない。

いま、この家には僕以外に誰もいないのだ。

 その時、何か不吉な音を聴いた気がした。

 ギシ…

僕は頭痛がした。まただ。また…。

それは逃れようもない、あの足音だった。

 僕は泣きそうになる。よりにもよってなぜこんな時に。前回といい、今回といい、この幽霊は僕をとことん嫌な目に遭わせたいらしい。

 足音はしばらく一階のリビングやキッチンあたりをうろうろしていたが、やがて階段を上りはじたのが分かった。怖い、怖い、怖い。頭が真っ白になる。僕の部屋は階段を上っていった突き当たりにある。

ギシ…ギシ…ギシ…ギシ…

足音は着実に近づいてきているようだった。金縛りで僕は身体を動かせないのは勿論のこと、目も開けられず、耳も塞げず、ただその怪異の足音に聞き耳を立てることしかできない。部屋のドアは閉めていただろうか。僕は急に思い出す。そういえば今日は帰ってきてすぐに寝てしまったからドアが開けっぱなしになっているかもしれない。それは恐怖が絶望に変わる瞬間だった。幽霊は今までドアを開けてまでどこかの部屋に入ってきたことはなかった。理由は分からないが、幽霊が歩き回る範囲は常にドアが無いか開けっ放しの場所に限られていたのだ。

 僕は幽霊が階段を上ってきてはじめて目にする物を想像した。そんなものは想像したくもなかったが、まるで脳に映像が直接送られてくるみたいに僕の意思に反してそのイメージは流れ続けた。

 そいつは一歩一歩階段を上がってくる。檜素材の綺麗に磨かれた階段。白い壁。一歩一歩踏みしめる。やがて階段の突き当たりにひとつの部屋が見える。いつもはそのドアは閉まっているが、今日は半開きになっている。階段はそこで尽き、二階に辿り着く。半開きのドアから中を覗く。暗闇に目が慣れてくると、そこに一人の少年がうつ伏せで寝ていることに気づく。なるべく音を立てないように近づくが、ギシギシという床鳴りは消せない。寝ている少年の枕元に座り、顔を近づける。

 僕はその男の鼻息を感じた。

 認めざるを得ない。僕が見ないようにしていた現実を。足音は幽霊などではない。それは明らかに人間の男のものだった。

最初の怪異に遭遇して以来、僕がこの短い人生の大半において晒され続けていた脅威は幻の中の靄などではなく、現実の肉体を持つ、実際の男だった。

 そいつは落ち着いた様子でただ静かに僕の顔を眺めていた。僕の顔を物色して何がしたいのかなんて知る訳ない。ただし絶対に目を開けてはいけないと思った。寝ているふりをしなければ。そうでないと、起きているとバレた瞬間、どこか薄暗い場所へと拐われてしまうような気がした。吸って、吐いて、吸って、吐いて。できるだけ等間隔で息することを考える。しかし、寝ているふりを意識すればするほど、自分が普段どんな風に寝ているのか分からなくなって、呼吸が不規則になる。緊張で呼吸もうまくできない。

 一体そいつがどんな顔で僕を見ていたのかは分からない。しかし、僕が不器用な呼吸をしている間も、男は冷静に顔を私の前に据えて、ただ穴が空くほどに凝視し続けているみたいだった。

 どれほど時間が経ったのか、僕には見当もつかない。それは永遠のように長くもあり、刹那のように短くもあった。男はゆっくりと立ち上がると、半開きになった部屋の扉を抜け、現実の身体の、現実の体重の、現実の足音を響かせて、帰っていった。足音は徐々に遠退き、一度キッチンの方に行った後で、脱衣所の方に向かい、やがて消えた。

 その男が何処からこの家に上がり込み、どのような目的で家の中を徘徊し、そして何処へ帰って行くのか。そのような疑問は、あの足音が人間のものだからこそ、より一層の恐怖と不快感を以て僕に降りかかる。どうにかして独力でその答えを解明しなければいけない、なぜ僕がそんな風に思ったのかは自分でも分からない。しかし、僕にはなぜかそれが僕の絶対的な使命として感じたし、誰にも協力を要請できない僕ただ一人だけの問題なのだという気がした。


 そこで日記の日付は5年生の5月に移行していた。

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