第10話 後輩

 突然だが、俺の妹を紹介しよう。不知火しろは、15歳。8月8日生まれ。夏生まれに恥じない、活発な性格。好きな食べ物はスイーツ全般、麻婆豆腐、麻婆茄子(ピリ辛)。苦手なものは苦いもの。趣味はカラオケ、しかし上手いという訳では無い。特技は料理。なお片付けは苦手。身長は155cm。体重は45kgプラスマイナス。

 好きな人、俺ことお兄ちゃんこと不知火士郎。こういうこと、自分で言うのは少し恥ずかしいが。

 さて、そんな彼女のことを紹介したのは、ただただ先日彼女が俺の家を訪れたからでは無い。というのも、これは少し未来の話だが、彼女はとんでもない行動力を内に秘めているということを、俺は知ることになる。

「やるな、春宮。上達してる」

「ふふん、今は平泳ぎを練習中」

 最後の水泳の時間、7月20日。入道雲がベッタリと引き伸ばされた空に、太陽が輝く。最後ということで、今日は自由行動ということになった。連日のように最高気温が更新される中、プールサイドにいる生徒は少なく、各々が自由に遊ぶ。あと三日ほど登校すれば夏休みという中、春宮は格段に泳ぐのが上手くなっていた。これもひとえに、春宮の努力と才能、そして榎原の教え方が上手いことによる賜物だろう。

「いやー、二人が仲直り出来てよかったぜー」

「おう。檜山、心配かけたな」

「ぷくぷく…」

 春宮は喧嘩してたのが恥ずかしかったのか、口から下を水面に着けたまま出てこなくなった。聞いた話によると、榎原と相浦も仲直り出来たようだし、特に諍いもなく、夏休みに突入できそうだ。

「榎原、春宮の件、ありがとな。それと、俺らのことに巻き込んじゃってごめん」

「いやいや、こっちのセリフだって!無事に仲直り出来たみたいでよかったよ」

 榎原は春宮を眺めて笑った。彼女の成長が、目まぐるしいからだろうか。それとも…。

「うんうん、仲良いのが一番だからね」

「そうだな。ふたりも仲直り出来たみたいでよかったよ」

 ざぱんと、水面から顔を出した相浦が俺に話しかける。そう、俺と春宮が喧嘩する前、こいつらも喧嘩をしていたのだ。どのくらい激しいものだったとか、何が原因だとかは聞かされちゃいないが、とにかくここ1週間はふたりは喧嘩している様子はない。むしろ仲良さそうだ。全く、嫉妬しちゃうよ。俺だってもっと相浦と仲良くなりたいってのにさ。俺も相浦と喧嘩すればいいのだろうか。いや、辞めておこう。できる気がしない。むしろ相浦と喧嘩なんてしたら、その場はどうにかなるにせよ、後々罪悪感で押しつぶされ、命を絶つことさえも厭わないレベルで精神的に追い詰められてしまう。

「たはは、そんなこともあったねぇ」

「いや、お前らの喧嘩が意外すぎてこっちも冷めちゃったというか、冷静になれたというか…」

「そうか…」

「お恥ずかしい…ぷくぷく」

 春宮はまた顔を半分水面に着け、恥ずかしそうにした。そんな彼女を見かねてか、相浦が春宮の脇腹を擽る。

「ぷくぷくするな、カプカプ笑えー!」

「か、かは…おぼぼぼ」

「佳奈ちゃん!?」

 そのまま全身の力が抜け、春宮が沈んでいく。相浦がそのまま背後から抱き抱えたが、大丈夫だろうか…?

「大丈夫?」

「ぷはっ。ん、大丈夫」

「良かったぁ、ごめんね、調子乗りすぎた」

「…ぷい」

「ごめんよぉー!」

 春宮はそのまま、すいーっとクロールで相浦から離れる。その後ろから、相浦がすごい速度で追いかける。そして、追い越した。

「あれ?」

「ありゃ?」

 泳ぎ終わり、ようやっと自分たちの立場が逆転していることに気がついたらしい。ふたりは顔をしばらく見合せ、吹き出した。

「あははは!」

「あははは!」

「なんで私が佳奈ちゃんより先にいるのさ!」

「いつの間にか、追い抜かされちゃったみたい!」

 ふたりは大きな声で笑う。あそこまで感情を表に出した彼女を見たのは、二度目だ。一回目は、先々週の喧嘩の時。最近、彼女は本当に表情豊かになった。まるで無機質な印象しか受けなかった彼女が、まるで今は別人のようだ。彼女らしく言うのなら、そう。真っ白なキャンパスに、大まかな色に塗られ始めた段階。

 だからまだ、完成じゃない。そうだろ、春宮。

「最近面白いよな、春宮」

「あぁ、そうだな」

「なんて言うか、可愛くなった」

 …、まじか。絵の完成は、案外近いのかもしれない。その絵の完成が、俺は見たい。俺は、あいつの絵に魅せられたんだから。

「そろそろ上がれー」

『はーい』

 気がつけば、もう授業終了10分前だ。女子の着替えを考慮したら、いい時間だろう。

「士郎くん」

「ん、どうした?」

「水泳って、楽しいね!」

「あぁ、そうだな」

 水泳が苦手なんて言っていた彼女が、こんなことを言うくらいに好きになれたのなら、榎原も教えた甲斐が有るだろう…。

 俺にそんな顔をしないでくれ、なんて自意識過剰なことは言わないでおこう。でも、きっと、その笑顔で人に告白なんてしたら、二つ返事で了承される。自信持てよ、春宮。


「みんな、明日は夏休み前の大掃除があります。体操服、忘れないようにね」

『はーい』

 大掃除か…。燃えるな。

「掃除大将軍…」

「おま、なんで俺の1年の時のあだ名を…!」

「言われてそうだから…、私も、家来として頑張る」

「おう、期待してるぞ」

 春宮はふふんと鼻を鳴らす。去年と違い、今は頼れる右腕がいるのだ。見せてもらおうか。ここ4ヶ月ほどの成果を。

 翌日。

「春宮、階段は上からはいていけ。あ、ここにまだホコリが…」

「姑?」

「しょうがないだろ、気になんだから」

 全く、相浦達はもう終わってるのに。春宮と俺はまだ掃除していた。どうやら俺の右腕はまだ発展途上だったようだ。春宮が階段をはき、俺が雑巾がけ、並びに汚れをとっていく。

「ほら、後ちょっとだから」

「んー」

「精が出ますなー!」

 学校で、この声を聞くことになろうとは思わなかった。なんと、振り返るとしろはが手を振っていたのだ。

「しろは!?」

「こんにゃっすー、あ、これはこんにちはとにゃっすを掛け合わせた云わば融合モンスターで…、でもあれ?そうしたらこんばんはもこんにゃっすになっちゃうから…、お兄ちゃんどうしよう!」

「おはにゃっすとこんにゃっすだけでいいんじゃないか?ってか、お前なんでここにいるんだよ」

「あたし?受験しに来た!」

「…は?」

 しろははビシッと親指を立て、突拍子もないことを言い出す。

「お前、去年ここ…」

「落ちたねー、落ちました。惨敗でしたとも。でも、去年の私はそこで諦めたのが悪かった」

「だからって、今の高校蹴ってまで…、母さんたちには話したのか?」

「話したよ。ちゃんと了承してくれた」

 なるほどな、放任主義の父と違い、母さんはああ見えて、感情や同情なんかで動くことは無い。よく言えば堅実派、現実主義なのだ。そして、彼女が許可を出した。それはつまり、彼女の実力ならば再挑戦させても構わない、むしろ受かる可能性の方が高いと踏んでいるのだろう。

「なら言うことは無いな。で、今から?」

「ううん。今終わったところ」

「うちの学校、面接もあったろ。大丈夫だったか?去年それで…」

「うん、そうだね…、でももう大丈夫!手応えあったから!」

「そうか。なら心配ないな」

「うん、二学期からよろしくね!先輩!」

 先輩、か。そう呼ばれるのは、中学以来かもしれない。何せ、帰宅部には上下の繋がりなどないのだ。まさか、関わりのある後輩第一号が妹になるかもしれないとは…。

 あ、そういえば、俺はまだ掃除の途中だった。春宮も待たせている。

「ごめん春宮、先に少し進めて…、って居ないし!」

 あいつ、逃げたな…。いやでも、結構綺麗になってる。及第点、いや、合格点だ。頑張ってくれてありがとう、春宮。

「俺もそろそろ教室に戻るわ。気をつけて帰れよ」

「ほい!じゃあ、ばいにゃっすー」

 しろはのにゃっすブームは、留まるところを知らない。そのうちにゃっす辞典ができそうな勢いだ。

 教室に帰ると、鞄を抱えて机に突っ伏した春宮が目に入った。俺が席に着くと顔を上げてこちらを見つめる。まるで寝起きのように、開ききっていない目に、俺を映す。

「春宮、帰るなら帰るって言えよ」

「長そうだったから。それよりどうだった、階段」

「控えめに言ってピカピカだったよ。あれなら満足だ」

「でしょー」

 春宮は胸を張る。すると、渡辺先生から「ふたりとも、仲がいいのは結構だけど、ちゃんと話聞いててね」と言われてしまった。クラス中から笑い声が上がる。どうやら、ホームルームが始まるようだった。

『はい…』

「まぁ、君たちちょっと険悪ムードだったし、それよりか全然いいと思うけどね」

 まさか、先生にまで心配されていたとは…。まぁ、結構ギスギスした雰囲気撒き散らしてたからな…。我ながら、恥ずかしい。

「そうそう、もうすぐ夏休みなんだしー!」

「そうよね。あ、檜山くん。もちろんわかってると思うけど、明日の成績次第じゃその半分返上してもらうことになるけど、分かってるわよね?」

「ナベちゃん先生マジ!?そりゃねぇよ!」

「檜山が馬鹿なのが悪い」

「ちゃんと勉強してろよな」

「二人も赤点ギリギリだったの、忘れてないわよね?」

『…はい』

 正樹と橘はともかく、檜山は酷い。全くもって酷すぎる。中学レベルの英語すらもままならぬ、因数分解は解けない。どうやってここに入学したのだろうか。こいつが受かってしろはが落ちる理屈が分からない。

「じゃまぁ、ラスト一日。最後まで気を抜かずに行きましょうね!では、委員長、号令!」

「起立!気をつけ、礼!」

『さようなら!』

 ホームルームを終え、クラスメイトは部活に向かう。あ、部活と言えば。

「春宮、部活どうしたんだ?」

「あぁ、うん。まだ決めてない…」

「ちゃんと決めろよ?」

「士郎くんも、ね」

 言われてしまった。そうだよなぁ、俺も…。

「あ、そうだ。いいとこある」

「聞かせてみ?」

「文芸部。こちら、今なら女装先生のコバンザメとして活動していれば廃部にはならない優良物件です」

「あぁ、なるほど。俺も入ろうかな」

 考えたな。筋も通ってる。しかし、ひとつ懸念点が…。

『てことで、おねしゃーす』

 俺と春宮は入部届を西川に提出する。

「なるほど、活動実績は俺に一任すると」

「うん」

「俺らは文化祭とかに短編をちょこっと書こうかなと」

「なるほどな…、俺への負担がデカすぎる!…と、言いたいが。俺も部員は欲しいところだ。いいだろう、その条件、飲んでやる」

 案外、すんなりと受け入れられた。もう少しごねられると思っていたが。最悪、トマト料理一ヶ月分を西川に提供するくらいは覚悟していた。

「いいの?」

「この部活、廃部の危機なのよ」

 後ろでスマホを弄っていた那月が、西川の後ろからひょこりと顔を覗かせた。

「廃部?活動実績はあるだろ?」

「あぁ、放任主義ではあるが、顧問もついてる。しかし、あとひとつ。部員が足りない。文化祭が終わるまでに、最低5人。部員が必要なんだ」

「なるほど…」

「私と西川、そしてあんたらふたりで四人。あと一人必要なのよね」

 へぇ、那月が協力的だとは、意外だ。にしても、あと一人か。

「那月の広告効果なら、集まるんじゃないか?」

「いや、そうもいかん。うちの学校、何故か兼部が認められているところが少ないんだ。それこそ、ここと演劇部くらいだ。で、その演劇部の部員を幽霊部員として兼部させて貰ってたんだが、顧問が変わり、活動方針も変わってしまったらしくてな…、たく、困ったもんだ」

「なるほど…」

 すると、何か思いついたように、ぽんと春宮が手を打つ。

「あ、いい人いる」

「連れてきてくれ!」

「わかった」

 勢いよく部室を飛び出し、数分後、春宮が連れてきたのは…。白衣を着た少女だった。

「こちら、化学同好会の部長、夏目愛萌さん。唯一の化学同好会の部員の方」

「ど、どうしたんですか、春宮さん…!」

「文芸部に入って欲しい。化学同好会と文芸部は合併ということで」

「えぇ!?」

 まさか、クラス以外に交友関係があったとは。しかもとんでもなく横暴なことを言い出した。しかし、この人は…。

「やめた方がいいんじゃないか?」

「え?」

「だって、この人受験生だろ。すみません、勝手に連れてきちゃって」

「確かに…、ごめんなさい」

「は、はい。お力になれず、申し訳ありません。では、失礼します」

 申し訳なさそうにして、夏目先輩は部室を後にした。これで振り出しだ。

「…こうしていても埒が明かん。今日のところは部員ふたりを確保出来ただけでも良しとするか」

「よろしくな、部長」

「よせ、らしくない。で、これからどうする?執筆でもするか?」

 うーん、それもいいんだが…。

「いや、俺らは帰るよ。昼食持ってきてないんだ」

「そうか。じゃあまた明日だな」

「おう、また明日」

「ん、また明日」

 俺と春宮は文芸部部室を出た。にしても、部員あと一名か。どうにかならないもんか。そういえば、俺たち以外の帰宅部って見たことないな。もしかして、結構珍しかったとか?

 頭を悩ませながら春宮と校門を出ると、不意に視界が塞がれた。

「わっ!」

「だーれだ!」

 聞き馴染みのある声、というかさっき聞いた声。

「しろは、お前帰ってなかったのか?」

「残念、しろは、お前帰ってなかったのかではありません。字余りです。正解は超絶プリティパーフェクト妹、不知火しろはちゃんなのでした!」

「そっちのが字余りだろ」

「とにかく、どうよコレ。さながら彼女でしょ。うーん、噂になっちゃうかもなぁ、女性経験の少ないお兄ちゃんが、いきなりあたしみたいな美少女と帰ってるなんて…え?」

 こいつの言うところの女性というものに当てはまる春宮を見て、しろはは首を傾げた。春宮も、首を傾げる。

「妹さん…、だよね。さっき階段で話してた」

「あぁ、こいつは不知火しろは。俺の妹だ」

「春宮佳奈、よろしく」

「って!えぇ!お兄ちゃん彼女いたの!?」

 どうやら、あらぬ勘違いをしているらしい。春宮も顔を赤くしてないで、少しは否定して欲しいんだが。

「いや、こいつはご近所さん。飯は一緒に食べてるけど」

「何それ新手の通い妻?進んでるなぁ、今は高校生から…」

「違うわ!」

 とんでもない誤解だ!春宮は今にもぶっ倒れそうだ!なんだお前、熱中症か!?

「まぁそれは置いといて!こんにゃっす!チャームポイントはパッチリおめめ!不知火しろはです!」

「にゃっす…?」

「おーい、それは俺への当て付けか?」

「違うって!むしろ、お兄ちゃんの目、あたしは好きだよ?切れ長でかっこいい!」

 昔からそうだ。しろはだけは俺の目を悪く言わない。家族だからというだけかもしれないが、俺は少なからず、彼女に依存しているのかも知れない。

「士郎くん、鼻の下が…、妹にもその調子?」

「昔っからこんな調子なんですよ…」

「いきなり突き離すな、お兄ちゃん泣くぞ!」

「あたしはただただ兄を盲目的に愛するそんじょそこらの妹とは違うのですよ」

「まるで全国津々浦々の妹が兄を愛しているみたいな言い方だな」

 反抗期とか、思春期とかあるだろうに。それすらも引っ括めて、こいつは妹は兄を愛して然るべき、と思っているらしい。いや、正確にはしろは以外の妹は、か。こいつはそこらの妹とは一線を画す存在らしいからな。

「んじゃ、帰ろう、お兄ちゃん」

「分かった。てかお前、よく待ってたな。俺ら短くても部活してたんだけど」

「別に気にならないよ。お兄ちゃんと帰るためだもん」

 ちょいちょいと春宮が俺の肩をつつく。何だ、何かあるのか。

「あの子、無自覚なの?」

「あぁ、そうだな。あいつ結構お兄ちゃん子だし」

 つまるところ、しろはもこいつの言うところのそんじょそこらの妹と言うやつの一人なのだということだ。彼女の俺への好感度は基本高め、何かイベントがあると激高、さっきのようにマイナスがあると普通くらいだ。なんなら、喧嘩しても可愛い可愛い言ってたらすぐに機嫌を直す。

 確かに、そういう面ではこいつは他の妹とは一線を画していると言えよう。何を隠そう、彼女はブラコンなのだ。お兄ちゃん子なんてオブラートに包んだ言い方はしたが。

「それと、彼女編入試験合格したら、部員確保できるんじゃない?」

「あぁ、確かに」

 まだ誰にも勧誘されていない、1年生。これ以上にない優良物件だ。それも、彼女の意思を尊重し、その結果入部してもらえればの話だが。

「なーにこそこそ話してんの?」

 俺と春宮の間に入って小首を傾げるしろはを見て、春宮がまたちょいちょいと肩をつついた。

「何あれ可愛すぎない!?あざと過ぎない!?」

「落ち着け、それもあいつの術中だ!まぁ最愛の妹だけど!」

「今からでもこの子貰っていい!?妹にしていい!?」

「断る。なんで俺からしろはを奪う前提なんだよ。分け合え、仲良く」

「それは仲良く二等分ってこと!?」

「バイオレンスすぎるわ!お前が俺と双子、もしくは姉妹じゃ無理かって話だ!」

「…え?つまり家族になろうよってこと!?ちょっと考えさせて欲しいかも…」

「…何マジにしてんの?」

 てか、こいつの妹になるには、養子になるか、俺とか姉ちゃんと…、って訳になるが。まぁ、彼女も冗談なのだろう。ん?なんか春宮がしろはに詰め寄ってる。

「お姉ちゃんって呼んで欲しい!」

「何ですかいきなり!貴方を姉と呼ぶ筋合いはないです!」

 あ、その一線はちゃんとしてるのね。にしてもそのセリフ、普通立場逆じゃないか?そこまで妹に飢えてるのか、春宮のやつ…。

「俺の妹を勝手に引き抜こうとしないでくれ」

「あたしのお兄ちゃんはお兄ちゃんだけだし、お姉ちゃんはお姉ちゃんだけです!」

 しろはは俺の後ろに回り込み、ぎゅっと袖を握った。虚ろな目をした春宮が、しろはに襲いかかろうとする。なんだコイツ、怖い!想像以上に飢えてる!何が彼女をそこまで突き動かすのか!

「ほら、すぐそこお前の家だろ?一旦落ち着いて、な?帰ろう?」

「ふー、ふー。お持ち帰り…、テイクアウト…!」

「し、しろは…」

「お兄ちゃん…?」

「ダッシュ!」

「へい!」

 俺たちは完全に狂ってしまった春宮を置き去り、家に走り出した。てか、春宮って足が速いんだった!このままじゃ…?ん?遅い…。お腹の当たりを押えて…、なるほど空腹か!気の毒だが、後で家に行って料理を振る舞おう。

「はぁ、はぁ…」

「あの人、妹に飢えすぎじゃない…?」

「確かにな…」

 すると、微かにゆっくりとした足音が聞こえた。春宮か。すまんな…。

「ねぇ、お兄ちゃん。お姉ちゃん帰ってきた?」

「え?何でだよ、まだ仕事だろ」

「いやだって、鍵が…」

「鍵が…?あ」

 そういえば…、これは先月のこと。

「春宮ちゃん、最近毎日ここに来てくれるよね」

「胡桃さん。うん、士郎くんのご飯、美味しい」

「お前もなかなか上達してるよ」

「うんうん、あ、ちょっと待ってね」

 そんな世間話をしながら、料理を食べていた時のこと。姉ちゃんが席を立ち、棚を探った。

「これ。家の鍵。もう私たち、家族みたいなものだからねー」

「え、いいのか!?」

「いいのいいの」

 西川の件しかり、姉ちゃんはもっと、家の鍵の価値を知るべきだ。当の春宮は、嬉しそうに、愛おしそうに、鍵を眺めていた。そんなに鍵を貰えたのが嬉しいのか。まぁ、他人の家の鍵など、普通貰わないからな。

 というわけで、彼女は家の鍵を持ってるのだ。

「春宮だ…!」

「えぇ!?ち、チェーンキー!あっ…」

 が、間に合わず…。ついに修羅に追い詰められる。

「お邪魔しまーす…!」

「ひ、ひぇ…」

「しろはちゃーん…!」

「ぴゃ…!」

 しろはが短い悲鳴を上げ、春宮に押し倒される。ごめん、ここまで来ると…。ん?

「動けない…きゅう」

「春宮さん!?お兄ちゃん、ご飯!」

「了解!」

 こいつ、もしかしてご飯が欲しくて彷徨い歩いてたのか…。なんか気の毒だな。それから春宮を引っペがし、料理を始めた。二人はと言うと、春宮は机に突っ伏しており、しろははそんな春宮の為にお茶を入れて心配そうに見つめていた。春宮の為にも、今日はササッと作れるインスタント麺にしとくか。

「お待ちどおさま、塩ラーメン」

「おー、夏といえば塩ラーメン!いっただっきまーす!うーん、美味しい!春宮さんもほら、あーん!」

「あーん…ちゅるちゅる…」

 自分で食べろよ…、と言いたいところだが、こいつさっきぶっ倒れてたからな。これで本調子を取り戻してくれたらいいんだけど…。その心配は杞憂に終わり、春宮は覚醒したように一気にラーメンを啜り始めた。

「ぷはー、おかわり!」

「おう」

 そして春宮はラーメンを2杯平らげ、幸せそうに腹を撫でた。どれだけ腹減ってたんだ。

「ごめんね、ふたりとも、怖がらせちゃって」

「いいんだよ。な、しろは」

「うん!春宮さん、面白いですね!」

「そう?」

「妹にはまだなりませんけど、可愛い後輩こと友達にはなりたいです!なってくれますか?」

「…なる!」

 そう言うと、春宮はぎゅーっと、しろはのことを抱き抱えた。

「春宮、しろは苦しそうだぞ」

「いいのいいの。って、あれ?」

「寝てるな」

「寝てるね」

 まるで子供だな。食べたあとに寝ると牛になるぞ。もう手遅れだが。

 俺はリビングの隣の和室に春宮を寝かせ、上からブランケットを掛けた。なんともまぁ幸せそうに寝てる。

「ねぇ、お兄ちゃん。あたしね」

「ん?」

「春宮さんのこと、好きだな」

「…は?」

 何をいきなり言い出すんだ、こいつ!え、もしかして、ブラコンに引き続きアレなのか!?いや、今の時代多様性が…!いや、それでもいざ妹がそうだってなると…!

「なんか勘違いしてない?あたしが言いたいのは、春宮さんとは良い友達に成れそうってこと。何だか、反応が可愛いし、無表情の時も多かったけど、笑顔もとっても可愛いし」

「なんだ…、うん、こいつは良い奴だよ。そうだ。今度、春宮の絵が展示されるんだよ。見に行こうぜ、三人で」

「行きたい。絵も上手いんだ。凄いなぁ、春宮さん」

 声のトーンに気をつけながら、しろははそう言うと、春宮の頭を優しく撫でた。心做しか、春宮が笑った気がする。すると、しろはも欠伸をした。眠いのか。

「春宮の隣で寝るか?」

「うん、そうしよっかな」

 少しオーバーサイズのブランケットのため、しろはが入っても少し余る。ったく、ふたりして…。まぁ、いいか。あ、そういえば押し入れに風鈴が…。あった。中学生の頃、俺の作った風鈴だ。適当に描いた涼し気な模様と、不格好な金魚が特徴。俺はそれを、自分の部屋の窓に付けた。開いた窓から風が流れ、風鈴が揺れる。俺は風鈴の音に耳を傾け、二人の寝顔を横目に、「風情だな」と呟いた。

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