第9話 喧嘩するほど

「おっす、今日も流れる汗が光りますなぁ!」

「おう、相浦。どうかしたか?」

 午前中の練習が終わった頃、相浦が俺の隣に腰をかけた。そして相浦はどこか困ったような、そんな顔をしていた。

「じゃ、やるか!」

 俺は、ラケットを取り出した。前のように、体を動かした方が言葉が出やすいかもしれない。

「…おう、がってんだ!」

 そう言うと、相浦は笑った。あぁ、本当にこいつは…、可愛いな。

「私さ!最近自分が分からなくなってきたんだよね!」

「それって?」

「昨日のプールでさ、佳奈ちゃんが不知火くんに助けられてた」

 相浦のサーブでゲームが始まる。あぁ、またアイツらか。知っていたが…。

「確かに、あの状況じゃ、不知火くんが助けるのは無理もない、いや、当然のこと。そのことは頭で分かってるのにさ…」

 やめろ…。

「どうしても、思っちゃうんだよね」

 辞めてくれよ…。

「羨ましいって」

 その時、俺の中で何かが壊れた。黒い何かが、胸の奥から込み上げる。

「んな事か。もう分かってんだろ」

「へ?」

「好きだからだよ。お前は、不知火のことが」

 予想外とでも言うのか、相浦は呆気にとられ、ボールに反応出来ず、ポンポンと転がる。頼む、認めてくれよ。そしたら、まだマシだ。

「私は、不知火くんのことなんて…!」

「相浦、前に話してたよな。友達以上恋人未満のやつがいると、付き合っちゃえって思うって。それさ、春宮たちのことだろ。確かにそうだな。春宮が不知火とくっつけば、お前だって諦めがつくだろうぜ!」

「辰馬くん…?」

「いいよな、お前らは!綺麗な両思いだぜ!俺の好きなやつは、俺になんて振り向いてもくれないのに!もうとっとと付き合えよ!そしたら俺だって忘れてやるよ!そして新しい恋を探すさ!」

 その時、俺はハッとした。もう、相浦からボールが帰ってくることは無かったからだ。俺はふと、相手コートを見つめた。そこには、相浦は居らず、俺のラケットだけが残されていた。


 分かってた。分かってたんだ。二兎を追う者は一兎をも得ず。二つのものを同時に手に入れようとしたら、全部零しちゃうんだ。不知火くんに、あんな偉そうに言ったのに。

 すると、前からいちばんこの状況で会いたくない人物が歩いてきた。あぁ、間がいいのか悪いのか。

「おう、相浦」

「やや!不知火くん!お買い物ですかな?」

「うん。ところでお前、何か鼻声じゃないか?それに、目も…」

「花粉症だよ」

「でも…」

「花粉症なんだって」

 お願い。今だけは騙されて。

「そっか…、なら、俺の家来いよ。昼ごはん、一緒に食べよう」

「でも、悪いし…!」

「いいんだよ。俺がそうしたいから、誘ってるんだ」

「わーお、大胆な告白だね。一緒にご飯食べるなんて、お家デートじゃない?」

 それ以上、優しくしないでよ。これ以上君に…。

「そういうの、いいから。ほら、この近くなの知ってるだろ、俺の家」

「それはそうだけど…」

 なし崩し的に、私は不知火くんに連れられ、家にやってきた。

「あれ、胡桃さんは?」

「今日は同級生とショッピング。夕方まで帰ってこないんだとさ」

「じゃあ、佳奈ちゃんは…?」

「あいつは昼は自分で作りたいって言ってた。今は叔父さんも来てるから、心配ないってさ」

 そう言いながら、不知火くんは手早く料理を進める。しばらくして、夏カレーがテーブルに運ばれてきた。

「いただきます」

「おう」

 あぁ、甘い。甘口だ。私が辛いの苦手なの、知ってくれてたんだ。

「ねぇ、カレー…」

「え、辛口が良かったか!?それとも中辛!?ごめん、春宮が『カレーは甘口しか認めない』って言うから、つい…!」

 …そっか。私のためじゃなかったんだ。春宮さんはもう、不知火くんの生活の一部になっちゃったんだ。だから、こんなところにまで…。さっきまで喜んでた自分が馬鹿みたいだ。

「で、何か悩んでるんだろ?」

「…へ?」

「ほら、さっきなにか悩んでるみたいだったから。春宮や姉ちゃんが居ないのかって聞いたのは、他の誰にも聞かれたくなかったからだろ?」

「そ、それは…」

「気にするなよ。俺だって、前の一件で何も力になれなくて、後悔してたんだ。だから、俺に出来ることなら、何でもしたい」

 前の一件とは、恐らく春宮さんが一週間ほど休んだ時の事だろう。本人の無意識で、私の触れてほしくない所にベタベタと触ってくる。なのにその行動の根底は、とても甘くて、私のことを思ってくれてる。

「ほんと、甘い」

「やっぱ…!」

「違う、違うの…、私ね、実は、ちょっと喧嘩しちゃって…」

「誰と?」

「辰馬くん…」

「榎原!?喧嘩するほど仲がいいってか…」

 不知火くんは、心底意外という様子だ。確かに、私たちは中学からの付き合いだ。高校に入ってからは、喧嘩もめっきりとしなくなった。それは、私たちが大人になったからだと思っていた。でも違った。私だけが、子供のままだった。辰馬くんが、気を利かせてくれてただけだったんだ。

「そんなの、ただの綺麗事だよ。辰馬くんは、私の事なんて…」

「んな事ないよ。多分さ、喧嘩するほど仲がいいってのは、半分は綺麗事だと思う、お前が言うようにな。でも、もう半分は合ってる。長い時間一緒に過ごしてるとさ、相手の好きなとことか、嫌いなとことか、いっぱい見えてくる。それが受け入れられなかったり、相手がそれを隠してしまったり。仲がいいからこそ、言えないことだってある。それこそ…、特別な感情を抱いたり。それがもどかしくて、どうしていいのか分からなくて、喧嘩しちまうことだって、俺はあると思う。だから、榎原が相浦を嫌ってるなんて、決めつけるのは良くない」

「不知火くん…、ありがとう。ちょっと元気出た」

 あぁ、やっぱり不知火くんは優しいな。今この気持ちを伝えたら、佳奈ちゃんのことも、気にならなくなるのかな。ちゃんとした、友達になれるのかな。

 私は自覚した。やっぱり、私は不知火くんのことが好きだ。やっと、自分の気持ちに素直になれた。

 そうだ、勇気を出して…!

「あの、不知火くん!」

 その時、佳奈ちゃんの顔が思い浮かんだ。なんとも言えない、優しげな顔。私たちが恋人になれば、あの子はきっと祝福してくれる。でも、あの子は多分、不知火くんのことが…。そう思うと、打ち明けようという気持ちにはなれなかった。

「ん…?」

「…あのさ、ちょっとショッピング行かない!?」

「…マジで!?行こ…でも待ってくれ、実は先約が…、って、あいつドタキャンかよ…。いいぞ、行こう」

「よーし、なら出発だ!」

 告白はしてなくても、デート気分を楽しむくらいなら、バチは当たらないよね?


 さて、昼ごはんも食べたし、そろそろシロイヌのところに…。私は玄関の扉を開け、ポケットから鍵を取り出そうとする。ん?あれは…。シロイヌと紗霧さん?私はドアを少し閉め、外の様子を隠れて観察した。ふたりは、そのままシロイヌの家に入っていく。ふむ、時間までは少しあるし、私も突撃…、いや、ここはふたりきりに…。だって、シロイヌは紗霧さんとふたりきりで居たいって思うはずだから。どうせなら、このまま今日はひとりで行こうか。邪魔者は退散だ。

 私は「急用ができた、ごめんなさい」とだけシロイヌに送り、市民プールに向かった。

 市民プールに行く道中、公園のベンチで項垂れてる男子の姿が目に入った。榎原くんだ。

「榎原くん…?」

「あぁ、春宮か…」

「どうかしたの、熱中症?」

「いや、違うんだ…」

「そっか…」

 でも、榎原くん、浮かない顔をしている。何かあったのだろう。すると、榎原くんは、「どこか行くのか?」と聞いてきた。

「プールに行くの。独学で、水泳上達しないと」

「あぁ、昨日は大変だったからな。じゃあ、俺も行くよ。春宮が溺れた時、俺が助ける」

「ほんと?うれしい!でも、榎原くん水着いま持ってない…向こうで買う?」

「ここらのプールって市民プールだろ?俺、近所だから、水着取りに行くよ。じゃ、市民プールで待ち合わせな!」

 取り繕ったような笑顔で、榎原くんは笑いかけ、去っていく。これは別に、榎原くんが好きだからとか、弱ってるところにつけこもうとか、そういうのじゃない、ただ、榎原くんには笑顔でいて欲しいから…。なんて言い訳を考えても、やはり根底には打算的な要素があるのだろう。そんな自分に、嫌気がさす。

 外から見えるくらい大きなウォータースライダー、はしゃぐ子ども達の声。つい先日プール開きされたばかりの、市民プールにやってきた。ロビーのベンチに座って、榎原くんを待つ。5分後くらいに、榎原くんがやってきた。

「おーす、春宮。じゃ、行こうか」

「ん、行こ」

 と言っても、更衣室は別なのだが。そういえば、本来はシロイヌと来る予定だったけど、シロイヌは今どこで何をしてるんだろう。紗霧さんとふたりきりで…。チクリと、胸の奥が少し痛む。なんでだろ、元はと言えば私が先に約束を反故にしたのに。

 膝くらいまでしかない子供プールで、私たちは特訓を始めた。

「じゃ、まずは顔を水に付けることだな」

「ん!すぅー」

 精一杯空気を吸って、顔を水につける。んー、それくらいはできる。10秒ほど水に潜り、顔を出す。

「お、クリアだな」

「クリア、次は?」

「そうだなー、バタ足してみるか。壁に手を置いて、バタバタって」

「バタバタ…」

 私は指示通りにバタ足する。バタバタと。さすがにこれで溺れることは無いが…。これで泳げるようになる訳では無い。これで泳げたら苦労はしない。

「おー、すごいキック!やっぱ春宮、足も速いし、武器は足だな!」

「ならなんで…泳げないんだろ」

「んー、なら、姿勢の問題かもな。次のステップだ。ほら、手を取って」

 手を…?榎原くんの手を!?私がまごまごとしていると、榎原くんが首を傾げた。不審に思われても仕方が無いので、勇気を出してぎゅっと握る。

「ほら、ぷかーって」

「ぷかおぼぼぼ…」

「春宮!?」

 体が水に沈み、膝で立つ。浅くてよかった。学校のプールでは足がつかなかったから。

「大丈夫か?」

「はぁ、はぁ…うん、心配かけてごめん」

「まず第一関門だな。全身の力、抜いてみて」

「こう?」

「んー、もっと脱力!俺を信じて!」

 そう言われても、よく分からないし…。そこから暫くは、水に浮く練習をした。榎原くんを信頼して…!

「春宮、できてるぞ!手、離すからな!しばらくしたら立てよ!」

「うん、分かった。すぅー…、ぷはー」

 走るのなんかとはまた違う体の動かし方だけど、なんとかコツが掴めかけてきた。そして、次のステップに。

「次は腕で水をかくぞ!」

「こう、スイスイーって?」

「おー!形は出来てるぞ!次は泳いでみようぜ!」

「うん!」

 榎原くんの指示通り、泳いでみる。でも、手と足を同時に動かそうとして、頭が混乱し、沈んでしまう。

「んー、こればっかりは慣れだな。一緒に頑張ろうぜ!」

「ん!」

 そして、私たちは、夕方まで特訓した。営業終了一時間前。最後の段階だ。

「最後は息継ぎだ!これで、長い距離泳げるようになるぞ!」

「おー!…ぷはっ、おぼぼぼ…」

「口に水が入ってるな、もっと思いきって、横を向いてみ?」

 が、しかし、ここで営業終了のアナウンスが入る。どうやら、三十分前にはプールからは出るように促しているらしい。

「俺らも出るか」

「うん…」

 全部できたわけじゃないけど、随分と進歩した。でも、榎原を誘ったのはコーチをしてもらうためだけじゃない。榎原くんが落ち込んでて、励ましたくて…。でも、全然できてない。元気づけれてない。

「榎原くん」

「お、春宮。着替え終わったか」

「うん…、榎原くん、私ね、榎原くんに助けて貰ってばかり。だから、私も榎原くんの力になりたいの。だから、話して。昼、何があったの?」

 ずいっと、顔を近づける。さっきまで笑顔だった榎原くんが、少し困ったような顔をする。

「春宮…、俺さ、今日相浦と喧嘩したんだ」

「…そうなんだ。なんで?いつもあんなに仲良さそうなのに」

「それは…、春宮と不知火がなんかいい感じで、その…、勝手に決めつけるのはどうなんだって思って、それで…」

「私!?」

 まさか、喧嘩の要因が私だなんて…。しかも、そんなふうに見られてたなんて。

「士郎くんには、家がご近所だから良くしてもらってるだけ。変な勘違いさせてるなら、ごめん…」

「そうなんだ、やっぱりな。相浦にも教えてやってくれよ。俺、まだあいつと冷静に話せる自信ないから…」

「うん。月曜に言っておくね」

「悪いな」

「ううん、気にしないで。じゃ、帰ろっか」

「おう、送ってくよ」

 ロビーの時計は、もう5時55分を指していた。もう営業終了だ。

「そういえば、春宮とふたりきりで話したことってなかったよな」

「確かに…きゅう…」

「春宮!?」

 今更そんなことを意識し、私は頭がショートする。榎原くんとふたりきり…!

「顔赤いぞ、熱中症か?」

「だ、大丈夫…。って、あれ…」

「不知火じゃん、おーい」

「榎原。…春宮?なんで榎原と…」

 出来ることなら、そのまま通り過ぎて欲しかった。すると、コンビニから紗霧さんがやってくる。榎原くんの表情が、若干強ばる。喧嘩したそうだからな…。

「お待たせー、報酬のアイスだぜよー、って、佳奈ちゃんと辰馬くん。どしたの、三人とも」

 私とシロイヌの間に、ピリついた空気が走る。私だって、紗霧さんといる理由が気になる。いや、すぐにわかるか。二人の手には、同じデパートの袋が。随分と量が多い。楽しめたようだ。

「…春宮、答えてくれ。お前は、俺との約束を反故にして、榎原と水泳の練習をしてたのか?」

「先に反故にしたのはそっち。私との約束なしにして、紗霧さんと一緒に仲良くショッピング?」

「それはそっちがドタキャンしたから!」

 なぜ怒るんだ。空気を読んだのはこっちなのに。そっちだって、紗霧さんとショッピングして、美味しい思いをしたのに。

「そっちが先に紗霧さんを部屋に連れ込んでたんでしょ!私、見たんだから!それで気を利かせて一人で練習をしようと思って、キャンセルしたの!榎原くんはその道中で出会っただけ!」

「俺はその後プールに行く予定だったんだよ!」

「嘘!紗霧さんと私なら、士郎くんなら紗霧さんを選ぶ!それなら…!」

「んなわけねぇだろ!お前の方が先約なんだから、そっち優先するに決まってるだろ!決めつけてんじゃねぇ!」

「お、落ち着いてよ、不知火くん!」

「そうだよ、春宮も!」

「落ち着いてられるか!」

「落ち着いてられない!」

 榎原くんと紗霧さんが私たちの間に割って入り、この場を諌めようとしてくれる。普段なら冷静になれた。でも、今は…。

「今日はお前の分の飯ないからな」

「行くつもりもない」

 私はわざわざ遠回りをして、家に帰った。まだ、頭は冷えることは無い。


「相浦…、ごめんな、土曜は。あと、春宮は不知火のことは、ご近所だから良くしてもらってるだけって言ってたぞ…」

「ううん、こっちこそごめん。それより…」

「あぁ…」

『ふたり、どうしよっか…』

 あれ以来、というか、今朝も、二人は隣席なのに冷戦状態が続いていた。その異様な雰囲気を察してか、俺たち含めクラスメイトは近づくことすら出来なかった。そのまま、昼休みまでもつれ込む。

「何かあったの?」

 二人の様子を見かねてか、檜山が俺に質問してくる。

「いや、ここで話すのは…、場所を変えたい」

 すると、ワラワラと正樹と橘、那月と西川が集まってきた。なるほど、口に出さずとも、気になってたわけだ。

「私も気になるわねぇ…場所なら、うってつけの場所があるわよ、ねぇ、西川?」

「あぁ…は?」

 そう言うと、那月は西川の肩に手を置き、ニヤリと笑った。あぁ、なるほど。だいたい察した。

 こうして俺たちは、文芸部部室にやってきた。

「ほらあんた端ね。あんたの肩幅が狭いのは、こうやって端に追いやっても邪魔にならないようにするためでしょ」

「俺は文芸部部長だぞ!少しくらいスペース貰ったっていいだろ!」

 なんて悪態をつきながらも、机を囲むように人数分の椅子を並べる西川。そこに一人ずつ座っていきその全員から熱い目線を向けられる俺と相浦。話すしかないらしい。

『お前らのせいでふたりが喧嘩を!?』

「でも待って?ふたりのせいでふたりが喧嘩して、そのふたりの喧嘩の原因もふたりで…」

「あんまり深く考えすぎんなよ」

「そーそー、で、ふたりはそれで責任感じちゃってるわけだ…」

「そういう訳なのだよ…。で、どうしたもんかなって相談を兼ねて話をしたんだけど…」

「…やっぱ、冷却期間って必要じゃない?」

「なるほど、つまり私たちがとやかく言うことなく、ただただ時間が解決してくれるのを待つってこと?」

「…あぁ」

 この場にいる全員が何も言わず、ただただ俯く。なるほど、これがこの場での総意だ。俺も、何も言えない。


 全く、春宮のやつ…、意地張って謝りに来ないとか…。

「それは俺も、か…」

 明日あたり謝って見るか…。結局、俺が相浦をご飯に誘ったのが悪かったか。それが誤解を産んで…。瞬間的にカッとなってしまったものの、今思えば全体的に俺に非があるような…。

 ん?何やら玄関にスニーカーがある。もしかして…。

「にゃっす、お兄ちゃん!あ、にゃっすってのは新しい挨拶ねー、考案1秒前」

「おう、しろは。来たのか」

「サマーなバケーションだからねー」

 ピシッと敬礼したのは、俺の妹、不知火しろは。歳は一つ下の、とても可愛い我が妹だ。

「姉ちゃんは?」

「山でクマと鉞担いで芝刈に…」

「まだ仕事な」

 こういう、突拍子のないギャグをぶち込んでくる辺り、しろはは相浦と似ている。相浦への恋心も、もしかしたら根底にはこいつがいるのかもしれない。

「お兄ちゃん、今日は私が料理するよ!」

「お、じゃあ任せようかな」

「任せたまえよ!」

 そう言うと、しろははエプロンを付けて晩御飯の支度を始めた。お料理系妹…。うん、ポイント高い。

「美味しい?」

「美味しいよ」

「ほんと?ほんとだ、美味しい!さすがしろは、略してさすろはだ!」

 うん、美味しい。腕が上がったな、そしてさすが母さん、我が家の味をみっちり叩き込んでいる。

「なぁ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはあたしのために死ねる?」

「なんだいきなり」

 しろはの料理を完食し、テレビを見ていると、何やらしろはが物騒なことを言い出した。

「あたしは死ねるぜ、神風特攻!」

「聞けよ。まぁ、俺は死ねないな」

「えー、お兄ちゃんのあたしへの愛はその程度かよー」

「俺が死んだら誰がお前を守るんだよ。だから、死なない程度に死ぬ気で守る。それが俺の答え」

 そんな臭いことを言い、若干後悔していると、しろはがビカビカと目を輝かせ始めた。どうやら受けたようだ。

「お兄ちゃん、かっけー!やっぱお兄ちゃんはお兄ちゃんだよ!」

「そりゃお兄ちゃんだからな」

 ちなみに、俺はシスコンでは無い。妹にも、姉にも、普通に愛情を持って接している。態度は違うかもしれないが、彼女らに合わせているだけである。

「で、その質問はここに来た理由になにか関係あるのか?」

「言ったろー、あたしが来たのは夏休みだから…」

「あと一週間くらいあんだろ」

「はぁ…、やっぱお兄ちゃんは騙せませんな…。お姉ちゃんは騙せたのに」

 さすが姉ちゃん。胡桃という名前だけに頭振ったらカランカランなってそうと言うのは言わないでおこう。いや、思わないでおこう。

「告白されたんだよ。クラスのイケメンくんに。『君のためなら死ねる』ってさ。で、その人振っちゃったの」

「え、そいつ振って大丈夫?」

「大丈夫大丈夫、数日死んだような顔してるだけだから」

 そいつ本当に大丈夫か?というか、まぁだいたい分かった。こいつの来た理由が。

「で、クラスの女子からの圧がすごいから、あたしだけ一足先に夏休み初めて、二学期まで様子見ってことで」

「なるほどなぁ…。流石にお前と周辺を取り巻く連中にとやかく言えるわけじゃないけど、まぁ、アドバイスくらいはさせてくれよ」

「アドバイス?」

「あぁ。いいか?逃げたっていい。我慢することばっかりが強さじゃない。それに、お前の世界はクラスだけじゃないだろ。俺や姉ちゃんだっていんだ。そして、新しい場所で困ってる人に手を差し伸べられるやつになれ」

「お兄ちゃん…」

 なんて甘い言葉を吐いては見たが、それは正論とは言えない。強く生きろ、強くあれと言う奴も居るだろう。あくまでこれは、選択肢のひとつ。これを受け入れるも、かなぐり捨てるも自由だ。俺はこう言いたい。いや、こう在りたい。弱くても生きろ、優しくあれ、と。

「分かった。ありがとう、お兄ちゃん」

「おう、帰るのか?」

「うん、あたし、やること出来たから」

 やること、か。少しでも前向きになれたなら、それでいい。

「駅まで送るよ。クラスのイケメンから狙われる女子なんて、いつ誘拐されるか知れたもんじゃないからな」

「大丈夫だって、私のカマキリ拳で不審者なんて屠ってあげるよ!」

 しゅっしゅっとしろははシャドーを披露する。とんでもなく心もとない。蚊すら殺せそうにない。

「いいから。ボディガードさせろよ」

「お兄ちゃんは強引だなー、そういうとこ、嫌いじゃない!」

 しろはがニコリと笑う。なるほど、これがイケメンを虜にした笑顔。まさに天使、いや、悪魔の微笑み。

 こうして、俺たちは駅に向かった。すると、改札の向こうから見知った顔が現れる。那月だ。

「奇遇だな。仕事帰りか?」

「えぇ、今日は夕方から撮影があったの。で、そちらの女子は?」

「不知火しろはです。…って、なつもご!」

 公衆の面前で爆弾発言をしようとするしろはの口を、俺と那月が塞ぐ。危うくパニックが引き起こされるところだった。とりあえず、駅から少し離れたところで解放する。

「な、那月陽菜さんですよね!あたしファンです!」

「そう、ありがとね」

「サインとかください!」

「いいわよ。また今度ね」

「はい!」

 また今度とはいつなのか、その日はちゃんと来るのだろうか。願わくば、妹のために一肌脱いでやって欲しい。

「ところで、お兄ちゃんと那月さんはどういう関係?」

「ただのクラスメイト」

「そ。やましい関係ではないわ」

 わざわざそのようなことを言うな、余計怪しまれる!

「てか、そろそろ電車来るんじゃないか?」

「あ、ほんとだ、3分前!急がなきゃ!」

 そう言うと、しろはは改札を通り抜け、笑顔でこちらに手を振った。

「じゃ、またねー、お兄ちゃん!陽菜さんもー!」

「おう、じゃあなー」

「またね」

 しろはがホームの方に向かっていくのを見届け、俺たちは家路に着いた。

「そういえば、不知火くん、春宮さんと喧嘩してんだっけ?」

「そうだけど、そうもズケズケ言われるとは思ってなかったな…」

「別にいいでしょ。私みたいな可愛い子だと、可愛いってだけで何言ったって許されるんだもん。まぁ、私としてはちゃんと春宮さんと向き合って、話して貰わないと困るわけ」

「可愛い云々は抜きにして、まぁ、向き合うよ。ちゃんと。悪かったな、クラスの雰囲気悪くして」

「確かに、めっちゃクラスの雰囲気悪かったわねー、あんたらはいつも通り、二人セットで適当にバカしてればいいのよ」

「なるほどな。だったら、お前と西川はいつも通りその隣で夫婦漫才してればいいんだよ」

「あんたねぇ…、まぁ、それも悪くないか。その隣で相浦さんや檜山くん達がボケ倒してて、榎原くん達が笑ってる。それがクラスの日常。クラスのみんなは、それを望んでるの」

 「だから、とっとと仲直りしなさい」と那月が締めくくる。所々に刺があるものの、その棘を全て抜いてしまうと、とんでもなく優しいものだった。

「にしても妹さん、しろはさんだっけ?似てないのね。主に目が」

「ほっとけ。何故か家族で俺だけ隔世遺伝なんだよ」

「なるほどねー、って、あれ」

 那月が指さす先には、春宮がいた。どうやら、コンビニ帰りらしい。不意に、俺の背中がとんと押される。那月だ。

「ほら、行きなさい。謝りに行くのは早い方がいいでしょ。私は先帰るけど」

「うん、ありがとな」

「いいのよ。じゃあね、また明日学校で」

 そう言うと、那月は遠回りで帰って行った。あれも彼女なりの優しさだろう。不器用なりの。

「春宮」

「…ん」

 ぴくんと、春宮の肩が揺れる。申し訳なさそうな顔だ。今朝の意地を張っているような顔じゃなく、怯えてるとも取れるような顔。

「…その、ごめんな。誤解させるようなことして」

「…こっちも、ごめん。早合点しちゃって」

「そうか…、おあいこだな」

「うん」

 春宮の表情が一変し、ニコリと笑う。俺も、安心して頬が緩んだ。

「そういえば、榎原とどうだったよ」

「ただ泳ぎを教えて貰っただけ。そっちは?紗霧さんとふたりきり、でしょ?」

「こっちも何も」

「ヘタレ」

「ヘタレ」

「…やめよう」

「ん…」

 互いに罵りつつも、どこか安心する。あぁ、そうか。俺は、怖いんだ。この関係が崩れるのが。那月が言うように、俺たちの日常が、俺は好きだ。でも、春宮と榎原が付き合うと、きっとふたりきりで過ごす時間が多くなる。そうなると、俺たちも変に気を使うことになる。なんというか、そんなのはしたくない。

 でもきっと、春宮はそれでも榎原を思うのだろう。俺がそうであるように。付き合うってのは、本人がどれだけ繕っても、友達とは一線を引き、その人を大事にする、ということなんだろう。

 そういえば、しろはにイケメンを振った理由をメールで聞いてみたが、「お兄ちゃんじゃないから」と返ってきた。すまんな、お兄ちゃんもお前が赤の他人なら了承するんだが、お前は俺の妹で、俺はお前の兄だ。禁断の実を口にする勇気は、俺にはない。

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