第51話 上下関係
目を覚ますと、体が軽くなっていた。怪我や疲労による痛みや、俺の体を埋め尽くす守り人の苦しみが感じられない。今の俺の体には、何も無い。
均等に並べられた長椅子。色鮮やかな窓。清潔感のある白い壁。壇上の背後に立つ奇妙な像。長い間封じられていたにも関わらず、教会の中は当時のままかと思う程に綺麗であった。
最前列の席に座っている俺が隣の席を見ると、窓から差し込む陽光を独り占めするセイレンがいた。
「目が覚めましたか?」
「……ああ」
「君と、見知らぬ協力者さんには感謝しなければいけませんね。十二の行事による封印だけでなく、監視役の守り人も対処してくれたのですから」
「……あんたの足止めをしようと考えていたが、今の俺じゃ、どうにも出来そうにない」
「ここまでの荒行。守り人からワタシの過去を聞いたようですね」
「セイレン……人を救い、人によって封じられた救世主。それが、あんたの正体なんだろ?」
「人からその名で呼ばれるのは、随分と久しい。ワタシがセイレンとして呼ばれていた頃は遥か彼方。どうにも型にハマらない。どうか、以前と同じくネムレスと呼んでください」
そう言いながら、ネムレスは俺に目も暮れずに奇妙な像を眺めていた。俺もネムレスに合わせて奇妙な像に目を向けた。塔のような体と、風車のような顔。男と女の特徴が混ざった腕を生やし、指は十本。本当に奇妙な像だ。
「ワタシが穢れを祓った後、人と共に主を模した像を創りました。形こそ似せましたが、本来はこれよりも遥か頭上に聳えるお方。何度見ても、やはり小さすぎますね」
「……恨んでるか? あんたを封じた人間を」
「恨む? まさか。むしろ、ワタシは嬉しい。かつては脅威に為す術も無かった人が、ワタシを封じ込めるだけの力量に成長したのです。恨むどころか、お祝いに値する偉業だ」
「じゃあ、何故封印を解こうとしたんだ?」
「人が成長した今、ワタシの事を憶えているのはごく僅か。善と悪を持ち得た人に、ワタシが与えるものなど何も無い。ならば、ワタシの使命は完遂したという事。帰還する時なのです」
「あんたの使命は地上の不浄を浄化する事。なら、人の心にある悪を浄化しなければ、使命は完遂したとは言えないんじゃないのか?」
「確かに! ここを飛び出し、この世界の悪という悪を浄化しましょう!……とは、いかないのですよ」
席を立ったネムレスが、俺の目の前にやってくる。黄金に輝く瞳に見つめられ、目が離せない。出会った当初に感じていた恐怖は感じず、感じるのは無力感ばかり。人が自然に勝てないように、目の前に立つネムレスに逆らう気力がまるで起きない。
「善と悪。それは対極でありながら、実際は一つの塊なのです。どちらか一つに偏れば、塊から雫が漏れ、雫はやがて穢れとなる。悪を完全に消去しても、残った善が腐敗していき、やがて穢れとなって爆発する。要は、善と悪は等しくなければいけない。秀でた才能が限られた者にだけ開花するのも、バランスを保つ為。上下関係というものがあるからこそ、人は対策を練る。上の者は自らの地位を守る為。下の者は地位を獲得する為。その過程で、善と悪が拮抗する」
「……さっぱり、分からんね」
「フフ。それで良いのです。今の君が感じているように、我々と人は対等ではありません。見上げても見えぬ位置にワタシは立ち、その天空の座に主が鎮座しているのです。理解をする必要も可能性もありません」
「……ネムレス。あんたは、人を見下し過ぎだ」
「ほぉ。というと?」
「さっきあんたが言った上下関係。上の者は自らの地位を守っていると言ったが、それはあんたが計れる人間の限界だ。だがな、長い年月の中で、人の中に例外という括りが出来た事をあんたは知らないようだ」
「我々に匹敵する人が誕生しているとでも?」
「具体的な時間は分からんが、あんたは大昔に人間によって封じられた。ほとんどは劣化したかもしれないが、例外の人間は成長した。時間の積み重ねと共に、遥かに力を増してな」
ネムレスが言った事は本当だろう。このまま見過ごしても、ネムレスは本来の場所へ帰っていく。荒事にならず、世界に一つの変化も無いままに帰る。誰にとっても、ベストな結果だ。
だが、こうまで差を見せつけられると反抗したくもなる。逆らう事が出来ないと感じているのが本能なら、俺の思想が反抗心を焚きつけている。人は神に届き得る力を持っていると信じているからだ。
「随分な自信だ。そうまで君を焚きつけるのは、一体何でしょうか?」
「言ったろ。あんたは人を見下し過ぎだ……気に喰わねぇんだよ」
「こうまで言われてしまうと、会いたくなりますね。君が言う、特例の人間というものに」
「あんたが向かわずとも、向こうから来るさ。守り人の監視は消え、俺が張った結界とは別の結界も消えた。門は開かれた……奴が、来るぞ」
教会の扉が開かれた。扉の方へ視線を向けたネムレスの表情に、驚愕とも歓喜とも取れる感情が表れた。振り向かずとも、その表情で誰が現れたかは想像に容易い。
酷く冷たい空気が、窓から差し込む陽光で暖かった教会内を凍てつかせる。目や耳や鼻で捉えずとも、脳に直接訴えかけてくる危険信号。まるで死が実体となって現れたかのような存在。大袈裟な表現さえも超えてくる現実。
「門倉冬美……彼女、いや彼か? 一体……誰なんだ?」
「ルー・ルシアン。天才を自称する狂人だ」
聞こえる足音が、徐々に近付いてくる。視界の端に見えていたルー・ルシアンの足が通り過ぎ、ルー・ルシアンは壇上に立った。
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