第41話 変異

 霧の中を彷徨い続けて、どれくらい経っただろうか。心が俺の前に現れてくれる事も、音楽が聴こえてくる事も無い。どれだけ歩いても景色は変わることなく、霧に覆われたアスファルトの道が続く。


 今になって俺は焦り始めていた。俺はこの霧の世界について何も知らない。現世との時間のズレ、霧が与える人体の脅威性。霧の世界での一分が、現世では一秒かもしれないし、一時間、あるいは一日かもしれない。この霧も無害とは言い切れない。俺は厄物のおかげでどうとでもなるが、心は普通の人間だ。いくら加護の怪異といえど、普通の人間が長く居て良い場所ではない。


 一番の厄介は、心を説得する以外で、ここから出る方法を考えようとすると、途端に思考が放棄される事だ。まるで俺の思考が透けているかのように、心が関係しない思考を狙い撃ちされる。これは加護の怪異による能力で間違いないだろう。だが、加護の怪異は持ち主の為に能力を発揮する。つまり、心の想いを叶える為に怪異は力を使う。


 結局、心を見つけ出して、彼女をここから出るように説得するしかないようだ。問題は、霧が邪魔をして気配を察知する事が出来ない事。俺が―――や―――のように術を使えたのなら、今よりも状況は良くなっていただろう。


 なんにせよ、足を進める以外に今は方法は無い。




「心ー! 俺が悪かった! 言い過ぎた! 謝るから、俺の前に一度姿を現してくれないかー?」




 一切の期待をせずに、俺は心に問いかけてみた。声を掛けただけで姿を現すはずもない事は重々承知している。もしこれで姿を現したのなら、今まで歩き続けてきた俺が馬鹿になる。


 そう思っていると、前方から波の音が聴こえてきた。まさかと思いながら、波の音の方へ歩いていくと、次第に霧が晴れていき、青い海が見える砂浜に立たされた。沈んでいく陽の光が海を輝かせ、現世で見た海よりも心奪われる姿をしている。


 そして、一際目立つ存在が俺の目の前にある。巨大な貝殻だ。形はホラガイのような形をしており、大きさは五メートルはある。その巨大なホラガイの穴から、異質な気配を感じる。洞窟の入り口のような先が見えない暗闇に近付き、耳を傾けた。




「ゥぅ……グス……ウ、ゥぅ……!」




 すすり泣く声。おそらく心の声だと思うが、声が二重に聞こえる。反響でそう聞こえるだけだろうか?




「心なのか?」




「……また、私を笑いに来たの……?」




「あれは悪かった。だが理解したと思うが、俺は決して他人に良い思いをさせる人物じゃない。言葉だけじゃなく、行動もだ。両親はいないし、育ての親もロクな奴じゃない。その甲斐あって、俺は捻くれ者に育った」


   


「……そう……言いたい事はそれだけ? なら、もう帰って」




「帰ろうにも、方法がね。まぁ、少し話しましょうよ」




 ホラガイに背を預けて座り、陽が沈んでいく海の景色を眺めた。今見えている景色も、怪異によって作られた幻。それでも、綺麗な事に変わりない。




「見てみろよ。あっちじゃ滅多に見れない程、綺麗な海の景色だ。人が命を削って産み出した作品も、自然の景色には敵わないと思える。そう思えるのは、人に対する嫌悪感があるからだろうな。善人と呼ばれる人間も、特定の人間からすれば悪人に見える。逆に、悪人と言われる人間を善人と訴える人間もいる。人間ってのは、同調出来ない生き物だよな」




「……みんな、同じように産まれればいいのに。容姿も性格も、みんな一緒なら、いつでも共感し合えるのに」




「人が種族である以上、それはありえない。共感出来たとしても、それは一時的なもの。心が願う人間は、一つの器に沢山の命が宿った集合体。それを人間と呼ぶには、俺達人間はこの器に愛着を持ち過ぎた」




「無理な事は分かってる……でも、それぞれに違いがある所為で辛いんだよ……」




「それでも、前を向いて生きてる。後ろに振り返って、過去を懐かしむ人もいるかもしれませんが、いずれ前に向き直す。時折、進む事に耐え切れなくなって、命を絶つ人もいます。でも、それがその人の人生なんです」




「……私に、死ねって言ってるの?」




「なんでそうなる。二択の内、損をする方を選ぶのが癖なのか? 悲観的過ぎる」




「ずっと独りで生きてれば、誰だってそうなるよ。あなたは違うよね。例え失っても、また新しい人があなたの傍に寄り添ってくれるもの」




 駄目だ、何を言っても悲観的な考えに繋げてしまう。正直言って面倒臭い。出来る事なら、俺だけでも現世に帰りたい。怪異が守るべき対象を殺せば、おそらく現世に戻されるだろう。だが、非の無い彼女を殺して、自分だけ現世に戻るのは躊躇いがある。


 とにかく、このままでは進む事も戻る事も出来ない。まずは顔を合わせて話そう。顔を見ないまま話を続けても、向こうがどういう感情を抱いて、俺がどういう意図で言葉を発したのかを理解してもらえない。


 ホラガイの穴の前に立ち、中に手を伸ばしてみた。痛みや苦しみも無いし、特に害は無さそうだ。俺はホラガイの中に入っていった。


 外から見た大きさよりも、中は広く感じた。何も見えない暗闇の中、手を伸ばして進んでいく。後ろに振り返ると、遠くの方であの砂浜の景色が見えた。


 進み続けていくと、伸ばしていた手の平に硬い感触がした。陶器のような滑らかさがありながら、時折トゲのような鋭い突起物がある。探り続けていくと、触っていたソレが動き出し、俺の手を握った。指が鋭いのか、握られた手にナイフで切られたような痛みが走る。




「……心なのか?」




「……うん」




「良かった。このまま暗闇の中を彷徨い続けるものかと。こんな暗闇に籠ってたら、そりゃ悲観的にもなるか。さぁ、外に出よう。幻ではあるが、海に陽が沈んでいく景色を眺めよう。少しは気分が晴れるかも」




「……無理だよ……もう、私はあっちにはいられない……!」




「心。まずは、この殻から出よう。現世に戻る事は一旦忘れて」




「……うん」




 痛みと熱さのある手で心の手を握りしめながら、俺達はホラガイの外に出た。暗闇にいた所為で、夕焼け空の下で輝く海が眩しい。目が焼き焦げそうな程だ。


 


「どうだ? 良い景色だろ」




「……」




「感動して言葉も出ないか? それとも、また悲観的な考えで落ち込んでるのか?」




「……ねぇ、冬美。私を……私を、見て」




 心の方を向いた。現世にいた頃の彼女の面影はほとんど失われ、今では怪異と人間の中間の存在になっている。硬くなった肌の至る所に黒い痣があり、腕にはヒレのようなトゲが生えている。おそらく服で見えない部分にも変異が起きているだろう。顔の方へ視線を向けると、顔の左頬には鱗があり、瞳は黒く塗りつぶされているようだった。


 今の心のように変異化した人間は、今まで何人か見た事がある。怪異のような化け物の片鱗がありながら、人間の域から脱せない。加護の怪異は持ち主を守る無害の怪異だが、怪異は伝染病のようなもの。そんな怪異が作り出した空間に長く居続ければ、例え持ち主であっても、感染してしまう。幸か不幸か、感染は容姿の変化だけで済む。


 俺は心が握りしめて離さない俺の手を見た。握られた俺の手から流れる血が砂浜に零れ落ちていく。害を為そうとする者から守る為の加護が、守るべき者を害敵にするとは皮肉なものだ。




「私は、醜い……?」




「まさか。むしろカッコイイじゃありませんか。腕のトゲトゲなんか、何かの作品に出てくる登場人物が使う武器みたいですよ」




「私はそう思えないよ……」




「そうですか? じゃあ、そう思わせてみせますよ」




 俺は心の顔面に頭突きを放った。心は口元を両手で覆いながら後ろに下がるが、すぐに痛みが無い事に気付く。顔を上げて睨んできた心の顔は、怒りと憎悪で満ち満ちていた。

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