第38話 泥

 地球は海の星だ。俺は本物の地球を見た事は無いが、少なくとも地球儀は見た事はある。青い球体に、緑の絵の具が適当に塗られた地球儀。その僅かな緑の地に、生物や植物が生きている。今まで、世界は人や人が作った人工物で溢れかえっていると思っていた。   


 でも、今目の前に広がる果ての無い海を目の当たりにして、俺の考えは変わった。俺達人間の影響力など微々たるものだと。人間が絶滅しても、海や緑は生き続ける。そう考えると、どうしようもない無力感が沸き上がってきた。


 足元に目を向けると、潰れた空き缶が俺の足に縋り寄っていた。空き缶を拾い上げ、持っていたゴミ袋に入れる。もうゴミ袋にはかなりの量のゴミが溜まっていた。二クラス合わせて六十人以上の生徒がゴミ拾いをしても、砂浜にはまだまだゴミがある。簡単な作業だと舐めていたが、この量は想定外だ。


 集団でゴミ拾いをしているクラスメイトの方を見ると、みんな片手間にゴミ拾いをしている。目についたら拾うだけで、少し離れた場所にあるゴミの存在に気付かない。報酬が出る作業には真面目に取り組んでほしいものだ。




「わぁ~。結構集めたね?」


  


 俺の背後に忍び寄ってきた宮下さんが、俺の左肩に顎を乗せて耳元で囁いてきた。




「もう四袋目ですよ。数年前から、テレビで環境問題がどうだとか言ってたのに。みんなテレビを見てないんですかね?」




「今はネットの時代。未だに携帯も持っていない門倉君が珍しいだけよ」




「頻繁に連絡を取る人もいませんから。出来たとしても、すぐいなくなりますし」




「私はどう? 門倉君と深い仲になったのは最近だけど、知り合ったのは中学から。もう数年も生きてるよ」




「宮下さんと深い仲になった記憶はありませんね。せいぜい、友人の一歩手前くらいじゃありませんか?」




「え~。二人の秘密を共有してるのに、まだ友人ですらないんだ。じゃあ、もっと積極的にならなきゃだね?」




「ますます距離が離れるだけですよ。さぁさぁ、作業を再開しましょう。宮下さんは宮下さんのテリトリーに戻ってください」




「そっか。楽しい時間はあっという間だね。それじゃあ、また後でね」




 去り際、宮下さんは俺の頬に軽く口づけをしていった。その内、脳みそをストローで吸われそうだな。顔を覆うマスクでも買っておくか。


 ゴミ袋が六袋目に突入し、クラスメイト達も宮下さんの指示で真面目に取り組んだおかげで、砂浜にはほとんどゴミが無い状態になった。開始から三時間で、ほぼ作業は完了した。ゴミ拾いは一日中を予定していた為、早く終われば帰りのバスの時間まで自由時間になる。お昼の後は、みんな砂浜で遊ぶのだろう。


 鞄を持って昼ご飯を食べようとしたが、海を見渡せる場所には既にクラスメイトに占拠されていた。その中に俺が入れば、みんな息苦しくなるだろう。ご飯の時間は、幸せに包まれていたいものだ。


 場所を探し回っていると、砂浜の隅に隠れられそうな岩場があるのを見つけた。岩場に行くと、その陰には既に心がいた。




「あ……」




「相席いいですか?」




「……勝手にすれば」




「そう。じゃあ、遠慮なく」




 岩場に登り、鞄を座布団代わりにして座った。昼ご飯は進藤先生が作ってくれたサンドイッチだ。具は定番の物から、あまり馴染みの無い物まである。


 手始めにレタスとトマトが挟まったサンドイッチから食べようとした時、心が岩場の上に登ろうとしているのが見えた。細い見た目の通り、彼女は自分の体を上げる腕力は無さそうだった。手に取ったサンドイッチを弁当箱に戻し、心が岩場に登るのを手助けした。


 


「……一人で登れた」




「そうか。余計な気遣いだったみたいだな」




「ムカつく」




 そう言いながらも、心は肩と肩がくっつく距離にいる。こういうのを俗に、ツンデレって言うんだっけか? 進藤先生が夜中に観てたアニメでそんなキャラがいた。俺が聞いた訳でもないのに、ご丁寧に設定まで詳しく教えてくれたな。


 


「……冬美は、どうして学校に来てるの?」




「食ってく為だ。学歴が無いと、仕事が見つけにくいからな」




「だったら、他の学校に行けばいいじゃん。今のあなた、みんなから嫌われてる」




「嫌われようが好かれようが、害が無ければ良い。幸運な事に、刃物持って特攻してくる奴はいないみたいだし」




「苦しくならないの? みんなから嫌われてるんだよ?」




「お前はどうなんだ?」




「……別に、好きじゃない」




「そうか」




 それにしても、進藤先生が作るご飯は美味しいな。サンドイッチなんて、誰が作っても違いなんか無いと思ってたけど、こうも違うとは。神隠しの呪いが解けなかったら、家政婦として雇うのもアリだな。


 早くも四つ目のサンドイッチに突入し、俺は何の警戒も無くサンドイッチを一口齧った。 




「うっ!? こ、これは……!」




 口の中に泥のような甘味が広がる。ジャムかと思ったが、これはどう考えてもチョコだ。ありがたい事に、チョコの塊も挟んである。進藤先生を家政婦として雇うのはやめておこう。




「それ、チョコレートが挟まってるの?」




「ああ……酷い甘さだ……」




「甘いのが苦手なの? じゃあ、なんで私が渡したチョコ菓子を受け取ったの? 嫌だったら断ればよかったのに。なんで受け取ったの? なんで?」




「菓子くらいならいいさ。だが、これはやりすぎだ」




「そのサンドイッチ。冬美が作った物じゃないんだ。誰が作ったの? 母親? ううん、母親なら自分の子供の好き嫌いが分からないはずない。じゃあ、仲の良い女の人? 恋人なの?」




「飯の美味さが取り柄の研修中の家政婦だよ。だがこれじゃあ、クビにするのも止むなしだ」 




「……私、食べ終わったからもう行くね」




 食べかけのチョコバーを袋に包み、心は立ち上がった。一人で登る事も出来なかった彼女が、岩場から無事に下りられる想像がつかない。下りるのを手伝ってやろう。


 


「下りるなら、また手を貸してやるよ」




「いらない」




「そうか? じゃあ、どうしてずっとそこに留まってるんだ? 下りられるんだろ?」




「ッ!? 人の気持ちを―――えっ?」




 心は俺の方に振り返った拍子に足を滑らせた。このままでは、彼女は後ろ向きで砂浜に落下する事になる。


 俺は手を伸ばし、心の腕を掴んで抱き寄せた。少し焦ったが、こうなる可能性は頭の中にあった。




「端で思いっきり振り返ったからこうなる。俺がいなきゃ、今頃苦しみもがいていただろうな」




「……そうだよ。冬美がいなきゃ、こんな苦しい想いをしなくて済んだのに……」




 俺の背中をさする心の手に力が入り、次の瞬間、心は俺もろとも岩場から身を投げた。俺は咄嗟に向きを入れ替え、心のクッションになった。固い砂浜に背中を強打し、息が詰まる。痛みよりも、苦しさの方が強い。




「冬美と話したのは今日が初めてなのに……私、おかしくなっちゃった……」




 俺の腹部の上に跨る心は、右手で俺の首を掴み、左手で自分の首を掴んだ。




「もっと……私を、理解して……!」




「こんな所に隠れてたんだ。門倉君」




「ッ!?」




 冷たい笑顔を浮かべた宮下さんが、俺達を見ていた。その背後には黒いオーラが滲み出ている。そんな宮下さんに気圧されたのか、心は俺の上から離れ、この場から走り去っていった。




「……ハァ。門倉君、少し話があるの」

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