第2話

 晴天の昼下がり、ボクは神妙な面持ちで空を見上げていた。


 あの木になっている、手のひらサイズで円くてピンクで柔らかい果物が食べたい――


 木登りくらい、魔法に頼らなくてもできる。

 ボクは木の幹にしがみついて、よじ登った。木の枝に身体を預けて上に手を伸ばすと、指先が果物に触れた。

 もう少しで、この甘くて瑞々しくて最高な果物がボクのものに――


「それは美味しいのですか?」


 誰もいないのが当然の黒い森の中なのに急に話しかけられて、びっくりした。それでボクはバランスを崩して木から落ちてしまったが、地面に激突する痛みを感じることもなく止まった。


「大丈夫ですか?」


 青い瞳が、こちらを見下ろしている。ボクの身体はヴィルの腕にキャッチされた。

 拾ったときに着ていた白いトレンチコートは例のデートの前に脱がせて城に保管しているが、ヴィルはそれとまったく同じデザインの白いトレンチコートを着ている。

 色々言いたいことはあるが、まず口から出てきたのはこれだった。


「どうしてここにいる!?」


 昨日、騎士団の詰め所に突き出したのに。


「マレーネに会いにきました」

「はあ!?」

「結婚してくれるまで諦めません」

「ストーカーかよ!? 騎士団に通報――」

「――したら、不法滞在がバレますね」

「……」


 真正面から相手にしてはいけない。ボクはヴィルの腕から抜け出して歩き出した。無視しよう。相手にするからいけないのだ。


「好きです」

「……」

「愛しています」

「……」

「あなたを誰よりも幸せにします」

「……」

「マイスウィートハニー」


「やめろって!」

 恥ずかしすぎて耐えられない。思わず振り返って怒鳴ってしまった。


「こっちを見てくれましたね」

 尻尾を振る犬のように嬉しそうなヴィルを、じとっとした目で見てやっても動じない。


 こうなれば、嫌われる作戦のほうがいいのでは。

 ヴィルは貴族だ。女性は皆淑女で当然という世界観で育ってきたはず。それなら真逆の振る舞いをして幻滅させればいい。


「そろそろパンチの時間だ」

「パンチの時間とは?」

「いつでも魔物と戦えるように、鍛えているんだよ」


 ボクは両方の拳を素早く何度も繰り出した。


「ふむ。女性なのに格闘の練習とは、珍しいですね」

「まーな。ボクって女っぽいことは全然しないし、胡坐とかかいちゃうし、大股開いて座るし――」


「はあはあ。素敵です」


「は?」

 拳を止めて、ボクはヴィルを見た。

 ヴィルは自分の左胸を鷲掴みにして、荒い呼吸で悶えている。


「ますます好きになりました」

「え、何で?」

「結婚しましょう」


 キラキラした瞳で手を握られた。ボクはそれを振り払って後退し、間合いを取って野生の魔物のように威圧した。


「帰れッ!」

「わかりました。帰ります」


 あっさり引き下がられて、動揺した。

 その言葉通り、ヴィルはボクに背を向けて帰ってしまった。


「な、何だよ……結婚してくれとか言っといてその程度かよ……」


 ポツリと呟いた翌朝、城門の前にヴィルが立っていた。

 果物を取りに行こうと外出するところだったボクはくるりと方向転換しようとしたが、腕を掴まれた。

「わたしと結婚――」

「来るな!」

「今日は一時間います」


 ヴィルは本当に一時間滞在し、帰って行った。


 また翌日も、ヴィルは来た。今度は二時間だった。


 その翌日もまた、ヴィルは来た。


 一週間続き、さすがのボクも限界になった。


「二度と来るな!」

 右手をポケットに入れて黒曜石を握り、ヴィルを突き飛ばした。

 尻餅をついたヴィルの目の前で容赦なく城門を締めて鍵をかけてやった。ヴィルは柵を握りながら諦めの悪いことを言った。


「わたしはあなたのことを愛しています」


「嘘だね」

「どうしてそう思うのです?」

「だってヴィルの周りには――」

「周りには?」

「金髪美人で着飾った貴族令嬢がたくさんいるだろ?」

「まあ」

「そんな奴らに囲まれているのに、こんな森の中に住んでいる女を好きになるわけがない」

「それってあなたの意見では? 人間の考えはそれぞれ違います」


 ヴィルは時々真っ当なことを言う。


「早く帰らないと、攻撃魔法を打ち込むからな」

「攻撃魔法ですか」

「ボクは本気だ」

「本気ですか」

「攻撃魔法はかつての戦争でも使われていたものだ。くらうと痛いぞ」


 ボクは右手をポケットに入れて黒曜石を握り、ヴィルを脅すために左手の人差し指で魔法陣を描いた。

 呪文を口にしていないから発動はできないが、魔法に詳しくない普通の人間はこれで恐怖を感じるはずだ。


「なるほど」

 ヴィルがふっと微笑んだ。

「帰ります」


「帰れ帰れ!」

 ヴィルは柵から手を放し、ボクに背を向けた。


 翌日――

 ヴィルは来なかった。この一週間どれだけ拒絶しても毎日来ていたが、魔法の脅しは効いたらしい。

 ようやく日常に平穏が戻ってきた。

 木陰に腰を下ろし、ボクは膝を抱えて座った。


「……」


 今日、何をしよう。

 どうしてだろう。

 いつも一人で何かしらしているのに、今日は思いつかない。

 したいことがない。

 ぼーっとしようにも、ヴィルの綺麗すぎる顔がチラつく。

 気分を変えたいが、変わらなくて、ボクはその場に寝転がって空を見上げた。


 そういえばあの白いトレンチコートを返すのを忘れていた。高級品だろうし返したほうがいいだろうか。いや、ダメだ、会ってはいけない。

 同じものを何着も持っているようだし、一着くらい無くても多分困らないだろう。


 木の葉が風に揺れて、隙間から太陽の光が差し込んでいる。金髪なら陽が当たると輝いて綺麗なのに、黒髪だとただの黒髪のままだ。


◆◆◆


 マレーネの城に行かなくなってから数日が経った。

 この日わたしは正装をして、公爵邸で開催した夜会に参加した。父の命令だ。わたしは二一歳だし、そろそろ花嫁を決めなければいけない。


「ヴィルヘルム様」

 金髪の長い髪を揺らしながら、ドレスと装飾品で着飾った美しい令嬢が近付いてきた。

 噂によるとわたしの花嫁候補筆頭らしい、侯爵令嬢だ。


「わたくしと踊っていただけませんか?」

 女性から誘うのは、この国では本来マナー違反だが、わたしが誰のことも誘わないから『誘ってこい』と身内から命じられたのだろう。


「申し訳ございません。今日は体調が優れないので」

「お待ちになって――」

 彼女を無視して、わたしはその場を離れた。


 夜会の会場に母の姿が見当たらない。溜息が漏れた。

 母はかつてこの国で一番の美女と呼ばれていたらしいが、周囲に散々甘やかされたせいでどうしようもなく中身がなく、自分の思い通りにならないと他人にも家族にも当たり散らす愚かな人間になってしまった。


 年齢を重ねて美しさに翳りが表れ、父が母に愛想を尽かすと、母は若さに執着するかのようにわたしと年がそう違わない愛人たちを抱えるようになった。


 父はそんな母のことを気にもかけていない。


 父にも愛人がいるのだ。問題なのは、父の場合は母と違って愛人に本気であることだ。

 わたしは薄々気付いている。父がこのイリーシュア公爵領の法律を変えようとしていることに。


 ハウツォーレン帝国という一つの国であっても、領邦によって法律は多少異なる。


 イリーシュア公爵領では、結婚した男女は離婚できない法律が存在する。母は気付いていないが、父はその法律を――愛人のために変えようとしている。


「ヴィルヘルム様」

 従者のヤンセンだ。わたしは彼と共に会場を出た。


「どうだった?」

「ヴィルヘルム様の予想通りで間違いないでしょう」

「うん。やっぱりそうか」

「魔法の研究者が来ています」

「父も母も愛人にかまけている今は、外部の人間を呼ぶ絶好の機会だね」


 ――マレーネ、待っていてね。


「ははっ!」

「ヴィルヘルム様、珍しく楽しそうですね」

「そりゃそうだよ。ようやくわたしの居場所が見つかったのだから」

「……考え直す気はありませんか?」

「ないね。このクソみたいな貴族社会からさっさと離れたい」


 ――そして、頭が空っぽの貴族の女どもとは真逆で高貴な君と、二人で生きていきたい。


「ヤンセン」

「はい」


「欲しいものは、奪われる前に力尽くで手に入れないと――後悔してからでは遅いよね?」


◆◆◆


 ヴィルが来なくなって一週間が過ぎた。

 最近、ボクの調子がおかしい。

 ヴィルのことばかり考えてしまって、やる気が出ないのだ。食欲も以前より無くなっている気がする。ピンクの果物を取りに行く気力もない。


 今日は中庭に寝転がって、薬草を眺めながらぼんやりしていた。


 ヴィルは元気かな。きっと元気にしているだろう。

 そんなことを考えていたら、結界への干渉を感じ取った。

 ボクは城を取り囲む塀の隅々まで魔法で結界を張っている。侵入者がいるらしい。

 ポケットの中の黒曜石に触れて感覚を研ぎ澄まし、どこが干渉されているか探った。


「マジかよ……」


 一人、二人ではない。

 下手したら一〇〇人近くいるのではないか。盗賊グループが、拠点にできる場所を探してこの城に辿り着いたのだろうか。

 その場合、ポケットの中の黒曜石だけでは戦闘できない。


 城の中にある倉庫に行き、黒曜石を確保する。そして見張り台に上り、そこから高難易度の魔法で全体攻撃を――


「えー、この城を占拠している者、早く門を開けなさい!」


 シミュレーションしていたら、塀越しにそんな言葉が轟いた。


「我々はイリーシュア公爵領の騎士団だ! 抵抗しなければ手荒なことはしない!」


 ここに五年住んでいるが、騎士団の訪問は初めてだ。

 まさか、ヴィルがチクッたのか。


 胸がズキンと痛んだ。


 そりゃあ拒絶したのはこっちだが、チクるなんて卑怯ではないか。魔女は、魔女だとバレたらこの国では処刑される。悪魔の子分として、死体は晒される。教会の権威を高めるための見世物にされるのだ。


 ボクが捕まればどうなるか、貴族であるヴィルは知っていたはずなのに。

 ボクのことを、騎士団に捕えさせるのか。


「我々は武力衝突ではない交渉手段を用意している! 代表者同士の一対一での話し合いの場を設ける! 五分待つ! 交渉の意志があるなら城門を開放せよ!」


 ボクは不法滞在なのに、何の交渉をするというのか。

 だが、五分では黒曜石を保管している倉庫に辿り着くことはできない。


 逃げるか。

 いや、ダメだ。

 ボクにはこの城から離れられない理由がある。


 交渉しよう。


 覚悟を決めて城門に向かうと、呆気に取られた。大勢の騎士たちを率いて丸腰で城門の前に立っていたのが、ヴィルだったから。


「やあ、マレーネ!」

「ヴィル……?」

「会いたかったよ」

「何だか口調が違くないか?」


「ああ、これかい? 今日は公爵家の人間として来ているから、君に丁寧な言葉遣いをする必要がない」


「何のためにこの城が欲しい?」

「観光地にでもしようかな」


 ここは恐れられる廃城で黒い森には魔物もいるのに、観光地にできるわけがない。


「冗談はやめろ」

「うん? じゃあ教えるけど、この土地を交渉材料にしようと思って」

「交渉材料?」

「この土地には結構価値がありそうだから」


 資源という意味だろうか。

 確かに珍しい薬草は生えているし、土にも栄養があり作物はよく育つ土地だが、開拓の難易度は高いだろう。


「中に入れてくれるかな? 代表者同士で話し合いをしようじゃないか」


 冷たい微笑みを浮かべたヴィルを見つめながら、ボクは城門を開放した。

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