第39話 災禍の竜、ヴァルボルヴォスの影──


 「ウルヴズ・ストームブリンガー」は、アズラにとって最大級の霊術だ。

 水霊術と風霊術で螺旋を描き、相乗効果により威力を増加させた代物。その破壊力は凄まじく、小さな村や集落程度ならば吹き飛ばしてしまう。

 何より、風霊術によって叩きつけられる水滴は冷たく鋭く岩をも穿つほど。それが、それこそ無数の束となって叩きつけられる。肉を削ぎ、骨を打ち、寒さで身体を砕かれるだけではない。

 巻き上げられた石や木々も殺到する、まさに災害級の一撃だ。

 ──かつて彼女自身、この技で魔物の群れを追い払うことに成功している。その代償に、幼いアズラは帰る場所も家族も亡くしていた。

 愚かにも、彼女の故郷である村では“忌み子”として追放したのだ。

 狩人にとって不吉な、嵐の夜を率いる者だと。


 ルクセンハイドの露店街で嵐が荒れ狂う。尖塔の屋根瓦を吹き飛ばし、街の護衛である石像のガーゴイルを倒し、リビングアーマーはただじっと身を打つ雨と風に身動きを止めていた。

 吹き荒ぶ霊力の風が収まって、それからようやくアズラは身を起こす。屋根の上から落ちた際に腕を痛めてしまった。そこへキリエがすぐさま駆け寄ってくる。


「アズラ、無事ですか」

「は、はい……えっと、落ちちゃいました、けど……」

「怪我は?」

「……あの……腕を、少し痛めてしまって……」

 自分の力で、自分の身を守れればこんな怪我はしなかった。そのことに心を痛めていると、民家の瓦礫を押し除けてヘルガがヴァレリアと共に無事な姿を見せる。


「っぶはぁーー! 死ぬかと思ったぁ!」

「ちょっとアズにゃん! 私たちのこと忘れてなかった!?」

「にゃ、にゃん……? えっと……射程範囲外だったので、大丈夫かなぁ……って」

「「大丈夫じゃない!」」

「ひぃん! ご、ごめんなさい!」

「ウルヴズ・ストームブリンガーの射程範囲外ってアズラの後ろ以外ないじゃん!」

「そうですね」

「キリエ総長、なんかボロボロじゃありません?」

「巻き込まれましたが、問題ありません」

 土埃やらなんやらでヴァルキリー・コートが薄汚れているが、キリエは気にしていなかった。

 改めて、災害級霊術の爪痕を見る。

 そこは無惨にも引き裂かれ、めちゃくちゃになった街の痛ましい姿があった。賠償額を考えるだけでも背筋が寒くなる。

 視線は自然とヴァレリアに向けられていた。


「……お金で解決できるなら頼める?」

 ヘルガの問いに、ヴァレリアは静かに視線を逸らしている。アンタさっきファングを買収しようとしてなかったっけ?


「気を抜かないでください。彼がやられたとは到底思えません」

 キリエの言葉に、顔を見合わせる。

 本当に珍しいことだ。相手の実力を過小評価せず、かといって過大評価もしない。見たまま感じたままに率直な意見を述べるキリエがこうも認める相手というのは。


「──いやまったく、御見逸れしたよ。霊術ってすげーな」


 緩みかけた気を再び引き締める。瓦礫を押しのけて、ファング・ブラッディは再び姿を現した。

 ウルヴズ・ストームブリンガーが直撃していたはずだ。しかし、衣類が破かれるだけに留めている。

 対敵にそれほどのダメージが見られないことにアズラは言葉を失っていた。キリエにとっては驚くまでもないことだ。


(……直撃する瞬間、なにか違和感があった)

 確かに見た。

 ──あの男の中に“何か”がいる。“それ”は、常に鳴りを潜めている。

 そしてそれを、ファングは決して表に出さない。だとすれば、霊力が一切感じられない理由も自ずと察しがつく。確証はない。だが、しかし、確かにキリエは見た。

 ボロ布同然の上着の袖を引きちぎり、ファングは足で長剣を拾い上げる。


「さて。仕切り直しだ、どうする?」

 剣を突きつけるファングにキリエが身構えた、その時。轍の音が近づいてくるのを感じる。ルートヴィヒが「草葉の息吹」の厩舎工房から馬車を受け渡されて御者席に立っていた。


「キリエ総長! こちらの用意は出来ています!」

「撤退を」

「でもっ!」

「確かめたいことがあります。ヘルガ、ヴァレリア。アズラを連れて先に行ってください」

 ヘルガからしたら、面白くないことなのだろう。

 しかし、そこへもう一人──ファングの隣に音もなく降り立った人影があった。

 背丈の高い長身の美女、だが纏う雰囲気が明らかな怪物であるそれは、キリエたちを無視して耳打ちしている。


「なんだ、メリメリ。……その情報、確かなのか?」

「えぇ。間違いない情報よぉ」

「そうか──聞いて喜べ、キリエ総長。今、確かな情報筋から重要な話が届いた」

「聞く耳を持つとでも?」


「首都スレイベンブルグに、竜の影有り──だそうだ」


 にやりと、意地悪く笑うファングにキリエが眉をつり上げた。


「俺もそんな気はしていたが、どうやら読みが当たったらしい。といってもベヒモスが暴れ出した、って話からの憶測でしかなかったが」

「……言ってみろ」

「【千刃竜】ヴァルボルヴォスが人間軍の前線拠点に接近中だとよ。急いだほうがいいんじゃねーかぁ? こいつはハッタリじゃない、なにせ魔王軍の【竜の御子】が竜脈から感じ取った話だからな」


 その名前を聞いた瞬間──キリエはファングに背を向けて駆け出す。

 ヘルガとヴァレリアが馬車にアズラを乗せて、ルートヴィヒが替え馬のツノ馬の手綱を握りしめている。間もなく駆け出そうとしていたその横を、黒い閃光となって追い抜いていた。


「キリエ総長!?」

「あぁぁぁ、もう言わんこっちゃない!! くそ、ルートヴィヒ何してんの! キリエ総長早く追っかけて!」

「は、はい!」

 慌ただしく走り去っていく一団をファングは佇んで見送る。

 メリフィリアはかがんで肩に頭を乗せながら問いかけた。


「追わないのぉ? 始末するのに絶好の機会だったのにぃ」

「いーんだよ。これ以上まともにやりあったらこの街が消し飛んじまう」

 それは割に合わない。

 ファングは災禍に見舞われた箇所を見渡してから口角を上げていた。


「あら、楽しかったのかしらぁ?」

「そりゃもう。よりどりみどり、殺すのが惜しくなるくらいには。とはいえさすがにちょっと疲れたな。宿戻って寝るわ、情報ありがとさん。メリフィリア」

「どういたしまして」

 身体をぐ~っと伸ばしてから、武器を格納して棺桶を担ぐ。その横顔を覗き込み、メリフィリアが笑顔を見せた。


「一緒に寝る?」

「抱き枕なら間に合ってる」

「ちぇー」




 ──【千刃竜】ヴァルボルヴォス。キリエから全てを奪い取り、リョウゼンの旅路を阻んだ災厄の竜。

 その姿は歪で、醜悪で、おぞましき生命。

 触れてはならぬ竜の逆鱗が身体を覆い尽くした、激情の怪物。

 それが今、前線拠点に近づいている。その言葉だけでキリエは霊力を留めていた枷を外した。

 ルートヴィヒがツノ馬の手綱を握り、その後を追っているが追いつくどころかどんどん突き放されていく。馬の体力の消耗を鑑みると、到底無茶なペースだ。

 それを見かねてヴァレリアがヘルガにアズラを預け、馬車から飛び出すと即座に駆け出す。


「ちょ、っとキリエ総長! いくらなんでも無茶です! ここからスレイベンブルグまでどれほどの距離があると思って──」

 制止しようと併走して、ギョッとした。

 ファングとの交戦で見せた霊力は、ほんの氷山の一角。全力には程遠い。

 地に足を着けた瞬間、爆ぜた。跳躍したキリエが木々の間を飛び越えて森の奥へと消えていくのを見て、ヴァレリアはポカンと口を開ける。


「あー……これ行かなきゃダメなヤツ? ルートヴィヒ! 私はキリエ総長を追いかけるからできるだけのんびり急いできて!」

「どっちですか姉様!? あ、行っちゃった……」

 ルートヴィヒが声を張り上げる頃にはヴァレリアも太い幹を蹴り出して姿が掻き消えていた。




 後先を考えなければ、前線拠点までの道のりは半日もかからない。ただ霊力と体力の消耗が著しい。

 ヴァレリアがキリエに追いついたのは、日が昇り始めた頃だった。

 呆然と立ち尽くしていた姿を見つけて胸を撫で下ろしたのも束の間、その光景に同じく立ち尽くすしかなかった。


 背の高い針葉樹林に混じって、赤黒い刃が無数に突き立てられている。よく見ればそれは鱗のようであり、縁が鋭利な刃のように研ぎ澄まされていた。

 刃鱗じんりんと呼ばれる、ヴァルボルヴォスの特異な鱗だ。「忌み名」である【千刃竜】はそこからきている。しかし、千の刃で事足りればまだかわいい。

 頭から翼の先、尻尾の先端に至るまで逆巻く竜の鱗で埋め尽くされた災厄は、目に付く全てに牙を剥く。理由など無い。

 ただただ殺戮の限りを尽くす。生きるための糧ではなく、まるでそれこそが生き甲斐だとでも言うように。


 ヴァレリアも聞いたことがある。騎士学校の座学では魔物の生態系についても問答が出される。その中には当然、ドラゴンに関する問題も出た。

 竜害と呼ばれるに至るまで人類はその脅威に晒され続けてきたこと。

 魔族と人間の両者には、必ず【竜の御子】と呼ばれる存在がいること。

 【千刃竜】には、決して近づいてはならない。

 いたずらに命を奪い、いたずらに命を弄び、いたずらに命を刈り取る刃。

 おぞましき竜は、人類が国を挙げて行った「竜狩り」から生き延びた。

 ヴァルボルヴォスの災禍は、リョウゼンとの交戦を皮切りにこの十数年なかった。それが今、二人の前に広がる痕跡はどうだというのか。

 赤黒い刃鱗は三メートルはあるだろう。それが無数に森の中を荒らしていた。そしてそれが狙っていた物がなにか。


「……石橋が」

 川を越えるために架けられていた石橋は、粉砕されていた。かろうじて残っている瓦礫から、横から強力な一撃で壊されていることがわかる。

 ヴァレリアが恐る恐るキリエの横顔を覗く。

 ──嗤っていた。息を切らし、玉のような汗を垂らして、しかし霊力だけは衰える気配がない。獰猛な笑みだった。

 探し物がやっと見つかったような、心底嬉しそうな笑みを浮かべている姿に言葉にならない寒気に襲われる。

 顔の古傷から、血が垂れていた。真っ赤で新鮮な血は汗とまじり、顎を伝って滴り落ちる。それが地面に落ちると“ジュウ”と音を立てた。


「あの、キリエ総長……」

「……ヴァレリア、見てください」

「はい?」

「コレが。幼い私から全てを奪った竜の鱗です」

 キリエは微笑みかけながら、刃鱗に手を触れる。


「アイツは、賢いんです。私の村も、そうでした。逃げ道を奪うんです、こんな風に。そうして必死に逃げ惑う人々を殺すんです。それはそれは、とても、たのしそうに笑いながら」

 ヴァレリアは動けなかった。

 キリエから放たれる霊圧が、あまりにも身体に纏わりついて、離れない。執念、怨念、憎悪。コールタールのような粘度でありながら、マグマのように熱い、暗く重い感情で丁寧に研いだ殺意は息を詰まらせるのに十分だった。


「なつかしいなぁ……」

 拳を引き絞り、鱗に叩きつける。亀裂が広がり、やがて崩れ落ちた。打ちつけた篭手の隙間から血が垂れている。

 それは、かつての古傷から滲み出していた。顔から、身体から、手から、足から。

 疼く。殺したくて殺したくてたまらないほどに、殺意の逆鱗が全身を奮わせる。

 この殺意と、憎悪と、執念だけが私の生きる理由。


「ヴァレリア」

「…………、はい」

「巻き込んで殺したら、ごめんなさい」

 どこか中身の入ってない声で、キリエは先んじて謝罪していた。

 それがヴァレリアには恐ろしくてたまらない。

 ──城壁に勝る竜の鱗を打ち抜く拳など、聞いたことがなかったから。


 呆気に取られるヴァレリアの前で、キリエは川を飛び越えた。追いかけるのが怖くなったが、それでも祖父や、兄弟達の安否を一刻も早く確かめるべくヴァレリアは深呼吸をしてから同じように川を飛び越える。

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