第29話 女三人寄ればかしまし


 前線拠点の湯浴み場は脱衣室と浴室に別れている。しかしキリエは湯に浸かるのではなく、身体を濡らした手拭いで拭き取るだけに留めていた。

 嫌でも目に入る傷痕は、顔に留まらず腕や足、背中に至るまで残っている。

 死戦を潜り抜けてきたと言われても信じる。

 だが彼女はまさに地獄からの生還者だ。【千刃竜】がただ一度仕損じた相手。


「…………」

 体の傷を見るたびに、新鮮な憎悪が湧き上がる。黒い感情を少女の身体に押し込めながら、キリエは手早く湯浴み場を後にした。




 朝食を摂り、ウェイルズ総長の手配した補給部隊と馬車を互いに確認する。

 出立の用意ができると、キリエはリョウゼンの姿を探した。それは間もなく見つかり、レオブレド大将軍の隣にいる。


「リョウゼン様、しばしお側を離れます。ご武運を」

《ああ。お前も気をつけてな》

「レオブレド大将軍閣下も、ご無理はなさらぬように」

「なぁに、私のことは気にするな!」

 レオブレド大将軍は豪快に笑って見せた。老いなど感じさせぬほどの健啖にキリエは会釈すると背を向けた。


「これより交易都市へ向かう。目的は蒼髪紫眼の人間の捜索、ならびに前線拠点への補給物資の受け取りだ。質問があれば今のうちに」

 キリエは馬車の横に並ぶ今回の同行者達に声を投げる。頭が痛むのか、しかめ面のヘルガは無視。

 挙手したのは、ルートヴィヒだけだった。


「ではルートヴィヒ、どうぞ」

「はいっ。今回の任務ですが、その目的の人物を発見した場合どうするのでしょうか?」

「尋問、のちに場合によっては連行となります」

「もしこちらに従わない場合には……」

「交戦も止むなし。最悪殺害することになるかもしれませんね」

 殺害。その言葉にルートヴィヒがギョッとする。そこまでしなくても、と思うのも無理はない。しかし大詰めとなっている戦局で慎重にならざるを得ないのだ。


「これに異論を唱える者は?」

 キリエの問いに、誰も異議を唱える者はいなかった。ならばこれ以上時間を無駄にするわけにもいかない。


「では、これより交易都市へ向かう。指揮は私が。副官はヴァレリア・ボルトザックを任命する」

「はーい、お任せください」

 なんともゆるい。だがクローディアも似たようなものだ。

 馬車に乗り込み、キリエ達は前線拠点を離れて交易都市へ向けて馬車を走らせる。




 変わり映えのしない景観を車窓から眺めているヘルガが青い顔をしていた。それをアズラが心配そうに見ている。

 馬車の揺れに呻き声が混じっていた。


「……飲み過ぎた」

「ほどほどに、と言ったはずですが?」

「だぁってクローディアのやつが煽るもんだから」

「カッとなって飲んだ、と」

「今はめちゃくちゃ後悔してる……」

 言わんこっちゃない。キリエは自業自得だと吐き捨てて外の景観を眺める。


「あ……あの、キリエ、総長」

「どうかしましたか、アズラ」

「えっと、なんで……捜索任務に志願を?」

「私は対象の人物を間近で見たので」

「で、でも……キリエ総長が、出るまでのことでは」

 たかが捜索任務。アズラの疑問はもっともだ。しかしキリエは首を横に振る。


「彼のことが気にかかるのは、事実です」

 リョウゼン将軍の隣から相手を見たときのことを思い返す。至近距離で見た。間近で観察した。覚えている。

 特徴的な蒼い髪に、紫色の双眸だったことも。緊張感のない顔で、だが確かに剣から手を離さなかったのも。

 しかし、気にかかった。


「お、なんだい。我らが総長もとうとう色づき始めたって?」

「ヘルガ。突き落としますよ」

「はは、勘弁して」

 言い出したらやりかねないのがキリエだ。とにかく冗談というものが通じない。

 あわあわとアズラが止めようかどうすべきか迷っている。


「け、ケンカは……だめ、ですって」

「でもキリエ総長。アンタがリョウゼン様以外の異性に興味持つってのは、本当に稀なことじゃないのかい?」

「…………言われてみればそうですが。それは今回の任務と関係ありません」

「ホントかなぁ~?」

「吹っ飛ばしますよ」

「ごめん、許して」

 手を合わせて許しを請うヘルガをじっと睨みながらキリエは浮かせた腰を落ち着かせた。

 一度戦場に立てば勝利の戦乙女ではあるが、戦地を離れれば年相応の少女らしく仲間と振る舞う。それを知っているリョウゼンは花嫁修業のひとつふたつ学ばせた後、良縁を結ばないかと考えているが誰もそんなつもりはなかった。


「で、でも。なんで、その人のことが……?」

「……強いて言うなら“違和感”です」

「違和感?」

「なんといいますか。直感的なものではあるのですけれど、異物感が拭えないというか……明らかにただの人間でした。ですが……」

 なにかが違う。キリエが立候補したのは自らの目で見て、リョウゼンの障害となり得る相手かどうかを見極めたいというところがあった。


「見極めたいと思ったことだけは、確かです」

「……えっと、なんだか……ちょっと、恋っぽい、ですね」

「は?」

「や!? あの、その、ごめんなさい……」

 極限まで研ぎ澄ませた霊術の「波」に当てられて馬車馬の霊馬を嘶かせる。

 ぶるひーん。どうどう。御者席ではなだめるのに少し手こずっていた。若干涙声だった気もする。


「……コホン、失礼しました」

「わた、わたしも……余計なこと、言いました……」

 何事もなかったかのように再び馬車が揺れ出した。ヘルガが青い顔をしている。吐くなよと念じるキリエに、手で「無問題」と答えていた。

 車窓がノックされる。闊歩する馬車と並走していたヴァレリアが飛び乗ってきた。


「すんごい霊圧ぶわーってなってたけど、どうかしました?」

「すいません、私です。お気になさらず」

「くひひ、やっぱすごいね。シュヴァルクロイツ親衛隊総長さんは。あ、おじゃましまーすっ」

 にこやかな笑顔を浮かべながらヴァレリアはヘルガとアズラに手を振る。


 ──ヴァレリア・ボルトザック。クレスト親衛隊の紅一点。キリエが記憶している限りは、確か第四子の長姉。レオブレドの孫娘だ。

 年は二十代前半、自分の一つ上だった覚えがある。


「リョウゼン将軍、本当に一人で城砦都市落としちゃったの?」

「えぇ、私達の出る幕ではありませんでした」

「ふぅ~ん。でもなんだか、ちょっと焦ってるような気もするんだよね」

「焦っている?」

「ちょっと性急すぎる気がしない?」

 速戦即決を旨とする雷鳴騎士、それもクレスト親衛隊からそんな言葉が出るとは思いもよらなかった。


「そうですか?」

「気の所為だといいんだけど、リョウゼン将軍は一応人間軍の最高司令官なんだから最前線に出る必要ないと思わない?」

「ですがレオブレド大将軍も同じことが言えます」

「それはほら。いちおう「魔族統治」の名目上、ね」

「……なにか気にかかることでも?」

「気に障ったならごめんなさい。でも、リョウゼン将軍が城砦都市を落とした理由は多分……」

 ヴァレリアが自分の鎧の右肩から胸にかけて指でサインを出す。

 【千刃竜】との死闘で傷ついた鎧を直すために城砦都市を攻めたのだろう。

 何よりも。“アレ”との再会だけは絶対に避けたい。

 そのサインにはキリエも苦い顔をしていた。


「あそこなら【竜害】への備えもできているし、きっとそうだと思うんだけど」

「──だとしても、貴方がたクレスト親衛隊の手を煩わせるまでもありません」

「そりゃ私たちだってあんなの相手したくないよ。お祖父様だって、最悪の事態を想定して「切り札」に招集かけたんだし」

「随分な念の入れようですね。魔族の王座にでも就くおつもりなんでしょうか」

「どうだろう。もしも魔族から長生きの秘術でも教えてもらえるなら、お祖父様は目の色変えそうだけど」

 冗談か、はたまた本気なのか。

 キリエにとってはどうでもいいことだった。レオブレド大将軍が不老長寿の秘薬を求めていたとしても関係のないことだったが、しかし。


「ヴァレリア副官……もしも。万が一の話をします」

「ん? なになに?」

「【千刃竜】と遭遇した場合。私は、おそらく自我を制御できなくなります。そうなったら、ヘルガとアズラを連れて全力で逃げてください」


 ──キリエの瞳が紅く、煌々と燃えていた。

 殺意の薪を焚べた、憎悪の炎は見ているだけで息を詰まらせる。

 怒りに顔を歪めるでもなく、悲しみを浮かべるでもなく。

 何もなかった。キリエは、ただ穏やかな波のように告げる。


「おねがい、しますね?」


 それがかえって、恐ろしくてたまらない。ヴァレリアはぎこちなく首を縦に振ることしかできなかった。 

 ガラガラと車輪の回る音だけが、日の高い草原の風に吹かれて消えていく。

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