12節 狂気
アルカディア。それは、男にとってトラウマであり、同時に……
「アルカディア……!」
憎むべき過去でもあった。
「?……一体……どうしたんで———」
「ッ……!触るな!」
心配し、伸ばしたヤコブの手を、男は咄嗟に振り払う。
そこで、やっとヤコブは気づいた。
目の前の男の感情が、後悔といった悲しみにくれたものではなく、憎悪や怨恨といった、強い怒りに変わっていることを。
「お前が……お前が……!」
その目は、先ほどのような弱弱しい光ではなく、風に煽られた焚火のように、強いものを宿しており、
「ヤコブ……お前が……」
涙を流し、しかしその表情は、怒れる獅子のごとく鬼気迫るものとなっている。
「ヤコブ……ヤコブ……?そうか……ヤコブ……!!お前がヤコブ!!!」
そして男は思い出す。自分たちの『ボス』が、事あるごとにに呟いていたその名前を。
「アルカディアの……リーダァァァァァァアアア!!!!」
瞬間、肉薄。
懐に隠していたナイフをその手に、突如男がヤコブの首を掻っ切ろうとその手を伸ばす。その動きは、火事場のバカ力とでも言うのだろうか、とても体にガタが来ている者とは思えないほどに俊敏だった。
「ッ!」
すんでのところで、ヤコブはその手を抑える。
魔力による身体強化の補助がある以上、体が限界の男が推し勝つ未来は想像できない。しかし、体は動かずともその迫力は、情動は、更に勢いを増してヤコブへと襲いかかる。
「お前!お前が!!お前らのせいで!!」
「……!」
それは、ヤコブにとって初めての経験だった。
単純な力でも、もちろん魔力においても、ヤコブが目の前の瀕死の男に負ける要素は何一つ存在しない。
にも関わらず、徐々にだが、ヤコブは押され始めていた。
「お前……!お前!!なんで……!お前ら……なんで母さんが死ななくちゃいげなかったんだ!!」
「………」
男の迫力に、その感情の大きさに、次第にナイフがヤコブの喉元へと近づき始める。
「お前らなんのかの……お前らみたいなやつのせいで———うっ!」
「!」
ナイフが喉元へと触れる刹那。不意に、男の体が真横へと吹っ飛ぶ。
突然のことに、ヤコブも訳がわからず辺りを見渡す。自身の息切れした音を聴きながら視界に入ったのは、右膝を上げた藍色の髪を持つメガネをかけた少年―――セクアだった。
「ヤコブ様。ご無事ですか」
言い、セクアはすぐさまヤコブの容態を確認しようと側へと近づく。
しかしヤコブは、その動きを手で静止させ、一言だけ口を開いた。
「……大丈夫です」
その言葉を聞き、しかしとても無事とは思えない様子に少し躊躇いながらも、セクアはゆっくりと動きを止める。
それを確認したヤコブは、再度反対の方、すなわち男の蹴り飛ばされた方へと目を向ける。
男は、怒りの籠った呻き声を上げながら、しかし流石に限界だったのか、その場に蹲っていた。
「うぅ……うぅううう……!」
「………」
絶句。
言葉がでないという状況を、ヤコブは初めて経験する。
何の外傷もなく、遥かに優位に立っている自分が、虫の息同然の男に気圧されているという現実。
その男の感情は、もはや怒りや憎悪と言ったものを超えていた。数多の人間の感情を見てきたヤコブでさえも形容できない、大きく、恐ろしい何かに。
「うぉぁぁあ……!あぁああ!!」
「………」
叫び、こちらを睨み続ける男。
恐ろしい緊張が流れる中、しかしヤコブは一歩、足を進めた。
「!?」
「………」
意外だったのか、男はこちらへと向かってくるヤコブに一瞬驚きつつも、しかし次の瞬間にはすぐさま先ほどと同様の感情をその顔に見せる。
しかし、それでもヤコブは歩みを止めない。
そんな様子のヤコブを見て、セクアも自然と身構える。先ほどのようなことはさせまいと、その手に魔力を宿し、いざとなったら男を殺す、命を奪う覚悟をする。
「……ッ!……うぅっ!」
「………」
恐ろしく、怖く、それでもヤコブは足を止めない。
例えその狂気が自分に向けられたものであっても、例え相手が自分を憎んでいたとしても、それでも、傷つき、悲しむ存在を見捨てることなど、ヤコブにはハナからできないのだ。
それは、まさに
「……ぁ……ぁぁ」
「………」
充分な距離、蹲る男の腕が容易に届く距離で、遂にヤコブは足を止める。
目の先に男の視線に、額に若干の汗を垂らしながら、ヤコブは口を開こうとする。
「……ッ……ッ…!」
しかし、言葉が出ない。なんと言えば良いのかが、まるで分からなかった。
「………」
「……おい」
「!」
吃り、黙るヤコブに、男が声をかける。
「何……見下してんだ……?舐めてんのか……?」
「あ……!」
言われ、ヤコブはすぐさま膝をつこうとする。
「……それは……なんのつもりだ……?」
「………」
男の指摘に、ヤコブは何も答えられぬまま、途中まで曲げていた膝を元に戻す。
そして、再び静寂が訪れる。
お互いに、口を開かぬその間は、ほんの数秒であるのにもかかわらず、やけに長く感じ、次第にヤコブの顔色を悪くさせる。
何か言おうとも、しかしそのどれもが不正解に思えてしまう。ヤコブは、自身がこれほどまでに弱かったのだと、ただただ無力を噛み締める。
「……んで」
「?」
ふと聞こえた声に、ヤコブの視線が上がる。
その時、入ってきた光景に、ヤコブはようやく気づく。
「なんで……なん…で……!」
男の感情が、悲しみへと変わっていたことに。
涙を流しながら、男は独り言のように言葉を続けていく。
「なんで…お前らが……お前らが…あの時入れてくれれば……」
「……」
それは、男が胸の奥に押し潰していた感情。何十年もの間叫びたかった、心からの訴え。
「みんな……みんな死なずに……すんだのに……!」
「……ごめんなさい」
瞠目。男は、ヤコブに聞き返す。
「……『ごめんなさい』?」
「……っ!」
言われ、ヤコブは気づいた。
自分の口にした言葉が、あまりに不適切であったことを。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ははは……」
「……」
不意に出たその言葉が、目の前の男に対してではなく、自分のためにでた言葉であることを。
「……なんだよ。それ……」
「……っ」
ヤコブの気持ちが、爆発する。
「アルカディアの……アルカディアの人たちが貴方に酷いことをしたのは謝ります!けれど、彼らも悪い人たちだけじゃない!貴方達のことを思いやる人だっている!!」
—――『不浄な地も、教皇様には関係なしか……』
「みんな毎日、『平和と平等』を目標に、他者への思いやりを培っている!実践しようとしている!」
—――『どっちでもいいわ、"非国民"だったし、いいきみよ』
「だから……だからきっと!今度こそは、みんなあなたを向かい入れて……!」
—――『今回の任務、特に"非国"の奴らには気をつけてください!』
「……向かい……入れて……っ……」
分かっている。
いくら口にしたところで、それが何の意味もないことは。
叫び、訴えたところで、それが言い訳にしかならないことは。
どんなに言葉にしたって、ただ自分を、傷つけるだけになってしまうことは。
「………」
力尽き、腕がダレる。
言葉を紡ぐたびに、自国民の言動がよみがえる。
止めなければいけなかったのに、何故か口は止まらず、それ故、余計にヤコブの精神は蝕まれる。
もはや、ヤコブに何か言う気力は残っていなかった。
「……今度こそ……向かい入れるね……」
「……?」
男が口にした言葉に、ヤコブは顔を上げる。
そして気づく。
男の視線が、ヤコブを憐れむ、憐憫な視線になっていることを。
「なあ、大将さん。……良いことをすれば、過去は無くなるのか……?」
「………」
「俺が……俺が明日から盗賊を辞めたら……あの国の連中は許してくれるのか……?」
「………」
「……同じ人間として、一つアドバイスしてやるよ」
それは、ずっと彼を蝕み続けた法則。覚悟し続けた常識。
彼のトラウマが、ヤコブを襲う。
「……やられた方は、忘れない」
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