優しいゴキブリ

 僕は電車を降りて、外に出た。


 夕日も消えかけて、紫色に変色したこの世界は、僕を安心させた。どんなに明るい朝の世界だって、いつかはこんなに気持ち悪くなるんだ。だから、僕が無害な人間から最低な人間になることだって、自然なことなんだ。


 僕は幸せだ。保留にされていた僕の人間性が、今、決まった。


 静かに心を踊らせながら、僕は歩いた。


 僕の家は一階にあるので、少しの階段を上るとすぐに、自宅のドアの前に着いた。


 鍵は掛かっていた。鍵を開けると、玄関に靴はなかった。


 手を洗った後、自分の部屋に入ろうとしたが、キッチンに何かあることに気づいた。


 作り置きしてある中華丼だ。ラップで包まれた中華丼の上に、「いつも遅くてごめんね。冷蔵庫に進太の好きなプリンがあるよ!」と書かれたメモが置いてあった。晩御飯と一緒にメモが置かれたのは、今回が初めてだ。


 別に遅いからって謝ることないのに。プリンが好きなんて言ったことないのに。


 これって、僕のことを気にかけているということなのかな。


 急に、どうして。


 この世にない感情が僕を襲った。涙は溢れているが、喜怒哀楽によるものじゃない。


 今朝起きてから今までの時間が、感情に変化したのかもしれない。


 僕は髪の毛をかきむしった。


 叫んだ。電車の警笛くらいうるさく。


 中華丼を床に投げつけた。埃まみれの床は野菜によって色鮮やかになった。


 叫んだ。ぐしゃぐしゃにされた厚紙のような声で。


 冷蔵庫にあったプリンも投げつけた。


 コップに入っていた手作りのプリンも同様に割れて、融解したように形がなくなった。


 大股五歩で自分の部屋に着くと、何冊も買ってもらった参考書を、全て床に叩きつけた。


 汚いゴミ屋敷が一向に改善しないように、荒れたこの空間は僕を落ち着かせた。


 僕は、あのメモによって利己的な望みは叶った。なのに、こんなことをしてしまった。


 きっと、僕はずっと被害者面をしていたかったんだ。悲劇のヒロインならぬ悲劇のヒーローでいたかったんだ。一応被害者として助けが欲しいと思っているが、それが欲しいのではなくて、本当は、助けを求めている自分が欲しいのだ。僕はエゴイストから、嘘つきなエゴイストに進化した。


 椅子を引いたような音がした。お腹が鳴ったんだ。


 僕はキッチンに戻った。


 すると、床にあるあの液体の上に、黒い物体がいた。ゴキブリだ。


 あの時無意味に殺したゴキブリが生き返ったのかな、と思った。


 ゴキブリは、必死にプリンを食べている。まるで、僕の罪を隠そうとしているみたいだ。


 そう考えると、ゴキブリは僕と正反対の、利他主義者である。これが、人とそれ以外の生き物の違いなのかもしれない。


 僕はその利他的な親友のようになりたいと思った。


 手始めに、親友の真似をして、プリンをすすった。

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