マネキンの手

 五分くらいぼーっとした。ゾウリムシは気づいたらいなくなっていた。


 現実を受け止めよう。僕は立ち上がった。ゾウリムシがいなくなったように、時間は止まらない。前に進まなければ、この絶望からは抜け出せない。僕はそう思った。


 僕は立ち上がったが、全身が痛くて泣きそうになった。僕は我慢してバッグを拾い、アノ集団が歩いた道を辿ることにした。


 灰色の雲が優雅に踊っているように見えた。


 ただ家が両側に並んであるだけの道なのに、トンネルを歩いているかのように暗く、狭く、長く感じた。だけど、見慣れた景色からあとどのくらいで学校まで着くのかはわかった。あと三分だ。


 僕の学校が見えた。冷たい緊張感が僕の心を覆った。


 骨のような石畳の上を歩いて、下駄箱へ向かった。僕は上履きを履いて、三階まで上った。教室に入る前に制服の汚れを落としたかったのでトイレに入った。汚れた鏡の世界を掃除するように、僕は持っていたハンカチを濡らして制服を拭いた。制服は濡れてしまったが、汚れていたときほど違和感はないと思う。僕は自分の教室に向かった。


 窓から入るような緊張感が走った。僕は脳をシャットダウンして、ドアを開けた。

 アノ集団、本を読んでいる二人の女子、先生がいた。全員僕のことを少し見たが、すぐに僕は空気となった。僕は席に座り、荷物を出して、勉強した。落ち着かないが、無理やり意識を参考書に向けた。アノ集団がアホらしい会話をしているというのと、全く理解できていないと分かっていながらも勉強するということによるストレスが、ボトボトと溜まっているようだ。僕は耐えながら勉強した。


 じわじわと入ってくる人々と同時に、時間も過ぎていた。クラスの机が八割ほど埋まったところでホームルーム開始のチャイムが鳴った。遅刻者はいつものメンバーで、八人くらい。


「じゃあホームルーム始めるぞー」


 やる気のない声が聞こえたと思う。出席確認は、出席簿に書かれている、とある八人の名前の横に連なっているチェックを一個追加するだけだ。業務連絡をだらだらと言っているようだが、当然聞くはずがない。僕はストレスが溜まっているのだ。


 「明後日の総合で福祉センターへ行って実習します」


 ん?何福祉センターって。てか急すぎじゃないか。


「それで、今日の六時間目のロングホームルームで体が不自由な人に関する動画を視聴します」


 ああ。そういう感じか。面倒だけど、皆の前で発表しないなら何でも良い。


 「実習後はレポートを書いて提出してもらいます」


 よかった。レポートなんて綺麗事を並べればそれで形になる。余裕だ。


「何か質問とかある?」


 沈黙。


 「じゃあ、号令ー」


 僕のクラスメイトのほとんどは、ただ立って、適当に礼をする。先生だけが声を出して生徒は感謝の言葉を述べない。


 そんなことはどうでもいい。さっきは意表を突かれて忘れていたが、僕はストレスが溜まっている。今はもう耐えられないくらい辛い。ただ、顔には出ないので誰も僕の辛さを知らない。特に、アノ集団は。


 僕は先生にいじめられたことについて話すと決めた。でも、アノ集団には言わないでほしい。正直、先生のことはあまり信用していない。どうせあまり強く叱らないだろうから、またいじめられる。


 いじめ自体は改善しないが、いじめられたことを誰かに話すだけで、このストレスはマシになるだろう。僕はその目的で先生に話す。


 先生が教室を出た直後、僕は先生のところに駆け寄った。


 「先生、あの、僕、増岡くんのグループの人たちに、いじめられました」


 先生は少し驚いていた。


「そうか。辛かったな。じゃあ、空き教室で話そう。」


 僕たちは廊下を歩いて空いている教室の中に入った。


 「それじゃあ富士野。どのようにいじめられたか教えてほしい」


 「僕は、今朝、投稿中に集団で暴力を振られました」


 「怪我はしたか?」


 「多分、お腹とか太ももは痣になっていると思います」


 僕はワイシャツのボタンを外して、タンクトップをめくって見せた。

 へその左上は赤黒く変色していた。


「ごめんな。気づけなくて」


 先生は悔しそうな顔で言った。


「アイツらにキツく説教するから、もう大丈夫だ」


「いや、彼らには言わないでほしいです」


「どうして?」


「先生にバレないようにまたいじめられるかもしれないです」


「わかった。他に何か言いたいことはあるか?」


「ないです」


 僕たちは空き教室から出た。


 なんだろう。この違和感。


 確かに先生は僕のことを助けようとしてくれた。そして僕はその助けを拒否した。ただそれだけのこと。


 でも、こんなにあっさり終わるものなのか。いじめた人たち全員の親に話をするとか、ないのか。


 まるで、マネキンの手を差し伸べられたみたいだ。冷たくて、自分から握り返さない手を。


 ストレスは、よく分からない感情に変化した。

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