第3話 人生は思いもよらず方向を変える2

【葉月視点】


「ちょっと話があるんだけどいい?」とお母さんに声をかけられたのは、夏休み後の中間テストが終わった頃だった。

 食後にお菓子をつまみながらソファでくつろいでいると、私の隣にお母さんが座った。

 そして続いてお母さんは私の右手を握る。

 残暑の厳しい秋にはやや暑く感じる密着度合いだが、いつも通りだ。お母さんはいつも私とくっつくし私もお母さんとくっつくのが当たり前になっている。

 けれど、私はお母さんの手が強張っていることに気がついた。

 どうしたのかと聞こうとするとお母さんが言った。


「実はわたし、再婚するかもしれないんだけどどう思う?」

「……え? 再婚?」

「そう、再婚」


 聞き返した私の瞳を受け止めるように頷いたお母さんに、私は聞き間違えではなかったらしいことを悟る。

 相手はどんな人?とか、何の仕事してるの?とか、何歳なの?、とか、驚きとともにいろいろ聞きたいことはあるけれど、ともかく私はなんだか泣きそうになりながら言う。


「良いに決まってるよ、おめでとう」

「葉月っ! ありがとうっ」


 声を上ずらせたお母さんとハグをする。

 お母さんは私に人生を捧げてくれたと言っても過言ではないと思う。

 私が生まれて早々に父親を亡くして以来、お母さんは仕事をしながら私を育ててくれた。

 人間を育てるのにはお金がかかるから、薄給であることをカバーするために長時間働いて、その上私を育ててくれた。

 お母さんに自分の時間なんてたぶんなかった。

 パワハラセクハラ当たり前で、何度も帰宅したお母さんが泣きそうになっているのを見た覚えがある。それでもお母さんは努力を続け、ようやく良い会社に巡り会った。そのおかげで今は報酬も労働環境も良いようだが、お母さんは40を過ぎてしまった。何をするにしても遅すぎるということは決してない年齢だが、失った時間としてはあまりに大きい。

 だから私はお母さんに感謝すると同時にとてつもなく申し訳なく思っていたのだ。

 そんな私がお母さんの再婚に反対する訳がない。

 一通り祝福して、再婚相手についてお母さんに話されるままに聞いた後、私から少し体を離したお母さんが「それとね」と再度表情を強張らせた。


「実は葉月に伝えないといけないことがあって」

「うん」

 

 お母さんはすうっ、と大きく息を吸った。


「相手の方には葉月と同い年の息子さんがいるみたいなんだけど大丈夫、かな……?」

「……あー」


 不安そうに上目で私を見上げるお母さんに私は言葉を詰まらせる。

 まあ、この年齢の再婚であれば相手にも子供がいるなんて不思議じゃないか。それもそれが同い年で男の子なんてのも当たり前に想像できる可能性だ。

 しかしそんな可能性を少しも想像していなかった私の気持ちは今までの浮かれ様が嘘みたいに盛り下がる。


「やっぱり嫌、かな……?」

「えーっと……」


 握り合っている手から伝わるお母さんの緊張に、私は言葉を彷徨わせる。

 正直に言ってしまえば、同い年の男子と同じ家に住むのは抵抗がある。

 別に男子が嫌いなわけじゃない。

 あまり話はしないけれど当然学校には男の子がいるし、何か嫌な思い出があるわけでもない。

 ただ私は人付き合いが得意ではない。

 仲の良い友達は数人いるが、他人と一緒にいるのが好きかと言われればそうでもない。

 家族である以上一定以上の時間をともに過ごすことになると思うが、それを他人と、しかも男子と過ごさなければならないというのは抵抗がある。

 というか嫌だ。

 ただお母さんには幸せになってほしいし、私のために再婚を取りやめるなんてことは絶対にしてほしくない。

 私がしばらくどうするべきか考えていると、唐突にぱっとお母さんの手が私から離れた。

 不思議に思って顔を上げると、お母さんはにっこにこに笑っていた。


「うん、嘘! 再婚なんて嘘でした!」

「え?」


 あっけにとられる私をからかうみたいにお母さんが「あはは」と笑う。


「や、素敵だなって思う人がいるのは本当だよ? でも別に再婚しようなんて話してるわけでもないし、可能性の一つとして言ってみただけ! つ、付き合ってるだけだし!」

「……」

「老後のことを考えて不安になっちゃったりして、言ってみただけ! さみしいかなーみたいな」

「……」

「でも葉月がずっとお母さんといてくれるもんね!」

「ずっとはいないけど……」

「えー!?」


 思わず突っ込んだ私にお母さんは喚きながらよよよと泣き真似をする。

 我慢できなくて吹き出した私にお母さんは優しく微笑む。

 いつもと変わらないお母さんだ。

 私に全部をくれるお母さんだ。


「ほんとにお母さんのことは気にしないでね」

「……分かってる」


 黙り込む私をお母さんがそっと抱きしめる。


「仮にどうしてもわたしが再婚したくなったとして。だとしても葉月が独り立ちしてからすればいいんだもん。わたしに急ぐ必要なんてどこにもない」


 そうかもしれない。

 けど、早ければ早いほうが良いのは間違いない。

 再婚が幸せにつながるなら待った期間は単純なロスだし、失敗するのだとしても再婚は早いほうがやり直しがきく。

 だから私は


「一回会ってみてから決めるよ」

「え……!」


 呟いた私にお母さんの顔がぱっと華やぐ……が、慌てたように真剣な顔に戻る。

 私はそれがおかしくて吹き出した。


「や、ばればれだし」

「もうっ」


 少女みたいに赤くした顔を手で覆うお母さんを見て私は嬉しくなる。

 お母さんにはたぶん返しきれないほどの大恩がある。

 ちゃんと幸せになってもらわないといけない。


「……でも、本当にいいの? 無理する必要なんて少しもないからね」

「大丈夫。だってお母さんが好きになった人とその息子だし」

「あうっ」


 私の言葉に恥ずかしさが限界を突破したのか、ぼんっと赤くなって湯気を出すお母さん。

 こんなに乙女な中年女性がいるだろうか。いやいない。

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