口をあけろ

@toriteri_unma

口をあけろ

登山の果てに指を無くした。

凍傷で、まるでゾウのような、黒く肥大化したそれを、もはや自分のモノとは思えなかった。故に指を切り落とすと言った話を聞いても「はい。」としか言えなかった。

3本。残ったのはたったの3本だ。


潮の香る実家には喪失感と面倒を持って帰った。


今まで、できていた。当たり前にできていたことが、難しかった。

できることの方が少ないから家族を待った。

何もできないから、何もしたくない。

こんな心構えで、何かをする気力など、どうして起きようか。


…やっぱり今日は何かしてみようか。




しばらくして、ヒゲもわしゃわしゃの伸び、

自分の腕が、無能なただ長いだけの棒に見えてきた。

何をするにも続かなかったのだ。

当然生活は、動かず、口をあけて飯をもらうだけで完結する簡単な毎日に変わっていった。


自分は死への忌避感のみで生きるヒトに成り下がった。






…誰かに呼ばれた気がした。

海に行くべきだと、強く感じた。


それで、家を出た。家族が心配するから真夜中に、内緒で。

外に出てからは、潮の香りが強い方へ、流されるように歩いた。3本の指しか持たぬ不便な手とは対照的に、足は健康そのもので、歩くことを喜んでいるようにスイスイと進んだ。

歩くたびに、嫌がるように悲鳴をあげる足も気にせず進んだ。


海が見えた。


夜の海は、遠目からみると月光を乱反射し、

その面に月を宿しているようだった。


何もかもを反射してしまうそれは、今の、自分の意思で生きていない醜い傀儡を写してしまうと懸念したが、ただ闇のみがあった。

全てを飲み込むような深い深い闇があった。


靴を脱ぎ捨て、海に駆けた。

バシャバシャと水を蹴飛ばしてみると、冷たさのためか、自分が生きていることを強く感じた。


まとわりつく水に、自分の身体が守られているようなそんな感覚があった。


しばらく足を浸からせていると、海と足との境界線を見失った。

身体が溶けているみたいに思えた。

もはや、陸に戻ろうとする考えなどは微塵も生まれず、むしろ、深みへの渇望が沸々と生まれた。

その闇がどこまで続くのか、見てみたかったからだ。


水に侵食されていくほどに、充足を感じた。

足首から膝、膝から太腿へと、どんどん浸っていく。

肌に纏わり付く服が気持ち悪かったが、構わなかった。


底へ 底へ 底へ


浮力に抗うように、ただの棒のような腕を魚のヒレのように使った。

夢中になって、掘るように振り回した。

全てを吸い込む闇はどんどんと深みを増し、やがて何もなくなった。

意識も、感覚も、光も全て飲み込まれた。





意識が覚醒すると、自分が口をあけていることに気がついた。

ただ、口をあけて、漂っていた。


おそらく、自分は、生きようとしている。

水中に潜む無数の糧を、無意識に喰らおうとしている。

口にあるわしゃわしゃとしたモノはヒゲで、食事に使うことは誰に教わらずとも理解した。

そして、一度の掻きで水を震わせ、水の流れすら操ってしまう大きなヒレを持っていることも、水の中の全てを明瞭にしてしまう目も、自分のモノであることに驚いた。


クジラなのだ。

そこには、クジラの巨躯を持つ自分がいた。


ワクワクした。思い返すと、今まで人間としての生活はできていなかったと思う。

食って寝て1日が終わる。

そんな生活じゃつまらない。わかっていても、指を無くした自分ではといって、行動を起こそうと思えなかった。


しかし、今は違う。

自分はクジラなのだ。

何者も歯牙にかけず、優雅に泳ぐその巨躯を持って、どうして浪漫を抱かずにいられるか。


刺激的だった。

海の近くに生まれながら、海とは遠い生活をしていた自分が、今は、海に最も近い。

新鮮な気持ちでいっぱいだった。


昂まる気分を隠さず、尊大とさえ思われる程に大きくヒレを動かした。


泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで 泳いで…







疲れた。


クジラというのはあまりにも動きにくい。


その巨大な身体は、それだけで巨大なエネルギーを消費する。

その巨大な身体は、巨大故に速く動けない。

その巨大な身体は、許可をしていないのにも関わらず、鬱陶しく周りを泳ぐ雑魚をも喰えない。


あまりにも、つまらない。

あまりにも、酷い話だった。


いくら泳いでも変わらぬ風景。

肺を使わなければならない不自由な身体。

雑魚どもを自力で喰らえぬ不自由な身体。


変わらない。


クジラの本質は、

ベットの上の動かぬ自分なのだ。

口をあけて、プランクトンを食べ続ける。

口をあけて、飯を入れてもらう。

どちらも、然程変わらない。

どちらも、口をあければ生きられる。


落胆した。

何も変わっていなかったことに、落胆した。



そして、落胆の果てに、気づいた。


ただ、自分は、自分に相応しい場所に連れてこられたのだと。

ただ、自分に不必要な人間性を取り上げられたのだと。

自分はもう変わることなどできないのだと。


だから、受け入れた。


最初に手にしたと思った全てが、虚無に帰った。

果てに、自分には死への忌避感、あるいは生存欲のみが残った。


それらは、いつも自分を生かしてきた。

それらは、いつも死から逃れようとさせる。

そして、いつも決まった命令を自分に下す。









息をしろ、

危険に近寄るな、

危険から遠ざかれ、

飯を喰らえ…











口をあけろ、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

口をあけろ @toriteri_unma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画