第2話 過去の足跡

お父さんは、僕の問いかけに対して一瞬だけ目を細め、深く息をついた。そして、静かにリビングのソファに座り、僕に隣に座るよう促した。

僕は心臓がドキドキしていた。お父さんがこれから何を話すのか、怖いような気もしたし、知りたいような気もした。


「智、まず最初に、今の俺がどうしてここにいるのかを理解してほしい。」お父さんはゆっくりとした口調で話し始めた。「俺が今こうして、お前やお母さんと平穏に暮らしているのは、決して簡単なことじゃなかったんだ。」


お父さんの声には、重みがあった。彼が言葉を選びながら話しているのが分かった。僕は黙って、その言葉を聞き取ろうと耳を傾けた。


「昔、俺は確かにヤクザの世界にいた。若い頃は、あの世界が全てだと思っていたんだ。強さこそが全てで、恐れられることが力の証だと信じていた。だから、俺はその道に進んだんだ。」お父さんの声には、かすかに苦しさが滲んでいた。


僕はその言葉を聞きながら、お父さんの過去の姿を想像しようとした。

今の優しくて穏やかな姿とは全く違う、お父さんのもう一つの顔がそこにあったのだろうか?

それとも、彼もまたあの世界で苦しんでいたのだろうか?

僕の心の中には、そんな疑問が次々と湧き上がってきた。


「俺は若い頃、何も分からずにあの世界に飛び込んだ。でも、そこで見たものは、ただの暴力と裏切りだった。仲間だと思っていた奴が裏切るのも、敵に命を狙われるのも、あの世界では日常茶飯事だったんだ。」お父さんは少し間を置いてから続けた。


「でも、俺はその中で生き抜かなければならなかった。俺には家族がいなかったから、仲間が全てだったんだ。俺が生き延びるためには、他の誰よりも強く、冷酷である必要があった。」お父さんの顔には、かすかな悲しみが浮かんでいた。


僕はその言葉を聞きながら、お父さんがどれほど厳しい世界で生きてきたのかを感じ始めた。彼がその世界でどれだけの苦労をしたのか、そしてその苦労が今の優しさに繋がっているのかもしれないと思った。


「でも、ある日、俺はある事件をきっかけに、自分が何をしているのか、本当にこのままでいいのかを考えるようになった。その事件で、俺は大切な友を失ったんだ。彼は俺を守ろうとして命を落とした。彼の最後の言葉が、俺の心に深く突き刺さったんだ。」


お父さんの目は遠くを見つめていた。まるでその時の光景が、今も目の前に広がっているかのようだった。その瞬間、僕はお父さんがどれだけの重荷を背負ってきたのかを、ほんの少しだけ理解したような気がした。


「その時、俺は初めて自分の生き方を疑問に思ったんだ。本当にこのままでいいのかって。俺が望んでいた強さって何だったのか。俺が手に入れたものって何だったのか。その友の死が、俺の人生を大きく変えるきっかけになったんだ。」


お父さんは深く息をつき、少し目を閉じた。僕はその姿を見ながら、言葉を失っていた。お父さんの過去が、僕の想像を遥かに超えるものであったことが、痛いほど伝わってきた。


「俺は、その後、ヤクザの世界から足を洗う決意をした。でも、それは簡単なことじゃなかった。あの世界は一度足を踏み入れたら、そう簡単に抜け出せるものじゃない。俺も何度も命を狙われたし、家族ができてからも、脅迫を受けることがあった。」


お父さんの言葉に、僕は驚愕した。僕たちが今こうして平穏に暮らしている裏で、お父さんはこんなにも苦しんでいたのか。僕はそのことに全く気づかずに過ごしていた。


「でも、俺は家族のために、どうしても抜け出したかったんだ。お前達やお母さんと一緒に、普通の生活を送りたかった。そのために、俺は命を懸けて戦った。最終的に、俺は小指を切り組織にけじめをつけて、今の平穏な生活を手に入れたんだ。」


お父さんの言葉には、決意が込められていた。彼がどれだけの困難を乗り越え、どれだけの犠牲を払ってきたのか、僕はその時初めて理解したような気がした。


「智、俺の過去を知ってお前がどう感じるか分からない。でも、俺は今、この家族を守ることに全力を尽くしている。それが俺の生きる意味なんだ。」


お父さんのその言葉に、僕は強く胸を打たれた。彼がどれだけの過去を背負いながらも、今を大切に生きていることを感じた。そして、僕もそんなお父さんを誇りに思うことができると思った。


その日から、僕はお父さんの過去を受け入れ、彼の強さを心から尊敬するようになった。彼の過去がどれだけ暗いものであっても、今の彼が家族を愛し、守るために生きていることに変わりはない。僕はそのことを胸に刻みながら、お父さんのような強い人間になりたいと願うようになった。


ただ、僕の心の中には、まだ整理しきれない思いが渦巻いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る