第4話 本当に婚約しちゃった!
変な空気を何とかした俺は、アエトスが用意していた契約書に目を通す。そこにはアエトスの名前もジークヴァルトの名前も書かれておらず、空白になっていた。
アエトスは本当に策略家だ。自分になってもならなくても大丈夫なように、書類を用意していたらしい。
準備万端というわけか。ジークヴァルトが乱入してきた時のアエトスの反応だとか、この書類の空欄だとかを考えると、彼は本当に、最初から自分のことはどうでも良かったようだ。
どうして自分のことを軽く考えるかなあ。
絶対に、しかるべき時に指摘する。俺はそんな決意を新たにするのだった。
「俺がサインする前に、きみもちゃんと契約書読んで」
俺がそう言いながらソファの隣をとんとんと叩く。その仕草で全てを察したジークヴァルトがそこに座る。
ソファが一気に沈みすぎないように、とゆっくりと体重を預けてくる。そこまでしなくたって良いのに。
でも、こういう気遣いが嬉しくもある。
俺のこと、好きだもんなあ。少し前まで恋愛の方の好きだとは思わなかったけどさ。
真剣な眼差しを書類に向け、じっと読み続ける男の姿を観察する。左の眉から額にかけて傷があるが、それがあっても良い男だ。
男らしさのある美男子で、偉丈夫。むさ苦しいの一歩手前くらい。ああ、でも筋肉が多めだから、少し威圧感というか圧迫感があるか。異性からすれば少し怖い外見かもしれないが、彼の落ち着いた雰囲気のおかげで、多少は中和されているような気がしている。
あくまでも、これは俺の主観だから実際はどうなのか分からないが。
いや、でもなあ。町に繰り出す時、ジークヴァルトに尊敬だとか憧れだとかだけじゃなくて秋波を送る人間を見かけたからな。実際、普通に人気はあると思う。
モテるのに、選び放題なのに、俺が良いって言うんだから不思議だよな。そんなに俺って良いものなんだろうか。
書類をめくる音が部屋に響く。
数枚だが、文字が敷き詰められたその契約書をじっくりと読んだジークヴァルトは、迷うそぶりも見せずに己の名前を書き込んでいく。
この契約書の内容を簡単にまとめると、こんな感じだ。
聖女の婚約者は聖女の精神的、肉体的苦痛を与えるような行動をしない。その逆もまた然り。
聖女の婚約者は、聖女を守る為にこの関係となるのだということを忘れてはならない。また、聖女はかの者への敬意を抱き、お互いの最善となるよう努力すること。
似たような内容がずっと続いている。まあ、つまりお互いを大切にしましょうね、という内容だ。
金銭に関する項目もあって、かなり本格的というか、普通に契約書だった。
ジークヴァルトがすべての空欄に自分の名前を書き込んだら、今度は俺の番だ。
……何か、緊張してきた。別に、このまま絶対に結婚するというわけでもないのにな。
これはあれか。今までそういう感覚で人と深く付き合ったことがないからこその緊張か。若かりし頃の不真面目な自分が恨めしい。
そんなことを考えている内に、ジークヴァルトは契約書の空白どころか、サインまで入れ終えていた。
「ラウル。俺はお前から同じ感情があるなしに関わらず、契約書の通りに行動する。もとより、こんなものがなくともやってきたことだ。今更、この距離を変えなくとも良いと考えている。
だから、俺の感情のことは気にせず、俺との関係に新しい単語が加わることについてだけを考えて決めてくれ」
俺を見つめる目に熱は籠っているが、ぎらついてはいない。いたって冷静なのだと告げている。
俺はそっと視線を逸らし、契約書に目を落とす。そして、ペンを握った。
「うん。よろしく頼むよ」
正式に婚約が決まった。ジークヴァルトのサインが入れられた書類にサインをした俺は息を吐く。あーあ、婚約しちゃった。
これは国の戦略的な婚約だ。それを俺もジークヴァルトも理解している。しかし、ジークヴァルトの方は俺に対する恋愛感情がある。
彼の口からも聞いたが、態度からも同じ感情を返してくれなくても良いという考えだからこそ、この政略婚約が成立しているようなものだ。別に、恋愛感情があるのが悪い、という意味ではない。
同じ気持ちを返せるか分からないことが後ろめたいというか、色々思うところもあって、勝手に俺が気まずい気持ちを抱いているだけだ。
でも、もう後戻りはできない。俺の主義的にアエトスを選ぶことができないのだから、ジークヴァルトを選ぶしかない。人間として愛すべき存在だと思っているし、命を預けても良いと考えている相手だ。
一度は、ジークヴァルトの命をもらい受けるつもりで、筆頭騎士を望んだのだ。人生を預け、預かることになっても後悔はしない――と、思う。
「おめでとう、二人とも」
揶揄する色を含めたアエトスの声に小さく笑い、俺はジークヴァルトに顔を向ける。既に彼は俺の方を見ていた。
いや、ずっと見続けていたのだろう。
「ヴァルト」
「……なんだ」
喜び、とは言い切れない表情で俺を見つめる男に、胸が苦しくなる。彼に気持ちを返してやれたらどんなに良いことか。どうしてジークヴァルトが俺に懸想することになったのかは分からないが、その表情をさせているのは俺だ。
もしかしたら、気持ちを明らかにしてしまったことに不安を覚えているのかもしれない。今まで真面目に、本当に真っ直ぐに俺を支えてくれた男が揺れている。
揺らぐ瞬間なんて、ほとんど見たことがないから、尚更どうしようもない気持ちになる。
「相棒として、大切にするよ」
「いつも大切にしてもらっているが?」
ああ、うん。ジークヴァルトはそういう男だった。俺はそっと彼の頬を両手で掴み、無理やり額を合わせた。
従順な俺の騎士様は、抵抗することなく頭を下げる。意外と長いまつげがばさりと上下する。
「きみは、俺への気持ちを隠さなくて良いからね。きみが俺の嫌がることをしないって信じているから」
「…………」
「気を持たせるつもりはないけど、もしかしたら俺もその気になるかもしれないし」
「そ……っ」
咄嗟に頭を動かしそうになった男を押さえつけ、俺は至近距離でにやりと笑う。期待させすぎるのは悪い大人すぎるし、かといって完全に諦めさせてしまうのも何となく嫌だった。
ずるい大人な俺は、目を細めてこの件に関してだけ曖昧にさせてもらう。
「まあ、そこは期待しないでほしいけど」
「わ、分かっている」
血色の良くなった男は、ぎゅっと口を真っ直ぐに閉じる。否定されなかっただけでこんなに幸せそうにするなんて、本当に可愛い人間だ。
この可愛い存在が俺以外を見つめるようになったら、それはそれで複雑な気分になりそうだ。わがままで悪い男に引っかかっちゃって、可哀想にな。
「別に二人が発展しようがしまいがどうでも良いんだけれど……今はそういう時間ではないよ」
はあ、とため息を吐きながらアエトスが契約書を取り戻し、立会人の欄にサインをする。
あれ? 立会人の欄があるということは、この場に必ず三人以上集まるのだと予想していたってことか? いなければ、俺の補佐官を部屋に呼び寄せるだけか。
そういえば、ティルマンはどこにいるのだろうか。ジークヴァルトが扉を蹴破ったからには、青い顔をしてその場にいそうなものだが見かけていない。
「とりあえず、お開きってことで」
色々考えるのが面倒になってきた俺は、補佐官を探す為にも早々にお開きを宣言するのだった。
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