第8話 紅玉と溜息

「と、いうような事があって。悪いけど、もう少しこれで」


 夜半。アデライドはルキアスの寝台に腰掛けて抱き起こし、その美しい顔を覗き込んでいた。


 強制された王子との初対面により多大なストレスを募らせており、素晴らしい美少女顔を目に焼き付けて記憶の上書きがしたかったのである。


「…………嫌なんだけど」

「まあ、そう言わず。魔力増加の経過を見ているというのもあるので」


 言いながら、ルキアスの紅玉のような瞳にうっとりと魅入る。

 紫がかった色合いは、本物の宝石であるならば純粋な赤色よりも市場価値は低い。だがアデライドはやはり、前者の方が好みである。


 その中に魔力の独特な光が少しずつ灯っていく様子の、なんと神秘的で妖美なことか。


 アデライドに見えるように目に魔力を集中させているルキアスもまた、無意識に目の前にある妻の目をじっと見てしまう。

 そのせいで、2人はまるで熱烈に見つめあっているようだった。


「……うん。明け方に中和剤を飲めば、次は昼過ぎで大丈夫そう」


 前夜に言質を取った通り、魔力定着の処置は既に終え、魔素の多い食事も食べれるだけ食べさせている。

 凍らせて隠し持っていた魔獣の肉を簡単にスープにしたものだったが、案外ルキアスの反応は良かった。


「僕の魔素変換ってそんなに遅かったっけ」

「いや? スープ作る時に、変換を遅くする作用の薬草を調合した」

「そんなのいつ取ってきたの?」

「割とどこにでもあるハーブなんだ。マルシャーレク庭園にあったから、人目が離れた時にちょっと摘んできた」


 世間一般には毒草で知られる植物だったので、アデライドはさりげなく言葉を濁す。

 魔素から魔力への変換が遅くなるということは、魔力欠乏症を起こす可能性が上がるということである。

 勿論毒と薬は紙一重であり、元から魔力欠乏症を患い魔力中毒の懸念の高い今のルキアスにとって、身体に負担を掛けにくくする薬である事には間違いない。


 常に魔素から魔力への変換作業を行なっているルキアスの体は、むしろその変換が極端に早い方なので、処方したのはかなり良い判断であった。

 食の細いルキアスでは、そのままでは魔力定着の安定に必要な量の魔素を保持できなかったからだ。次の食事までに魔素が魔力へ変換され尽くしてしまう。


「明け方に薬を飲むってことは、あなたはそれまでここに居るつもりなの」

「ええ、そのつもり。今晩のうちはあなたから目を離すつもりは無いよ。ああ、でも、眠かったら寝ていても構わない」

「……寝られるわけないだろ」


 覗き込んだままのルキアスの瞳が、僅かに瞳孔を大きくしたように見えた。


「ねえ、あなたはさ。王子殿下ともこんな風に、馴れ馴れしくべったり近づいたりしたわけ?」


 声色が僅かに尖りを帯びる。非難のような、侮蔑のような物言いだったが、本人の表情は不思議と寂しげに見えた。

 きっと顔の方が正解だな、とアデライドは断じた。ルキアスは皮肉めいた喋り方に慣れすぎている。


「いいえ、まさか。殿下の方からは近付かれたけれど」

「ふぅん……」


 自分から尋ねた割に、アデライドの答えなどどうでもよさそうだった。


「僕のことは? 避けなくていいの」


 ルキアスが身を乗り出すと、背を支えていたためにただでさえ近い距離がほとんど触れそうなほどになる。虚をつかれたアデライドがぱちりと瞬きをすれば、睫毛がルキアスの前髪に引っかかるほど。


「必要あるかな。あなたは私の夫だし……」

「王子の妾になるために結婚させられただけの相手だろ」


 月明かりに青白い暗闇の中、美しい紅玉だけが魔力でぼんやりと輝いている。魅入られて目が離せない。


「それでも、夫には違いないでしょう。妻らしく振る舞うのがだめというなら、結婚なんかさせる方が悪い……」


 惹かれるまま、残った距離を無くしたのはアデライドの方だった。

 唇の端に、己のそれをそうっと掠めるように触れさせる。それだけで離れようとすると、ルキアスの方がそれを追って距離を詰めた。


「…………思ったんだけどさ」


 吐息が混ざり合うようだ。囁く些細な動きさえ、肌で感じとれそうなほど。


「僕達、わりと気が合うかもね。妻だというなら、キスぐらいして構わない筈だよね?」


 二人とも表情筋の存在を忘れたように無表情のまま、熱に浮かされたように互いの瞳の中をただ覗き込む。


「それは……どうなのかな? そういう事に関しては、何も聞かされてないけれど」

「結婚式では普通、誓いの口付けをするものらしいよ。僕達は僕の体調優先でしなかっただけで」

「まあ、そういう話は聞いたことはあるけれど」

「そうでしょう? それに、先に触れたのはあなたの方だ」


 それもそうだ、とアデライドが思った時には、ルキアスが既に彼女を捕まえていた。


 病人らしく乾いてひび割れた唇からはところどころに固い感触がして、サリサリと些細な痛みがした。

 確かめるように触れるだけの最初のキスはすぐに離れ、けれど二度、三度とどちらからともなく唇を喰む。


 きっと、互いにこれが初めての口付けだろう。アデライドは夢中になる自分から弾き出されてしまったような思考の片隅で、ぼんやりとそんなことを思う。

 初めてのキスが何味か、のようなテーマは、娯楽小説でよく見かける話だ。

 アデライドの場合はうっすらと鉄くさい塩味がした。ルキアスの荒れた唇から滲んでしまった血のせいだ。


 そのような味がしてさえ、何ひとつ、嫌悪感は無かった。

 美しいものに触れ、触れられているという途轍もない陶酔感が、脊髄から脳まで注がれて満たされていくみたいに。


 やがて、呼吸の存在を思い出した2人はひとまず口元を離した。

 無言で互いに見つめ合う。上気した頬は熱をもって、けれど2人はやはり、表情を浮かべる事を忘れたままだった。


「ねえ、もっと」 


 催促したルキアスに、アデライドは躊躇いなく顔を寄せる。


 逃げやしないというのに、逃さないといわんばかりにルキアスの手がアデライドの背と頭の後ろに回されている。そんな事さえ、ひたすらに気持ちがいい。


 ぞくぞくと肌が鳥肌立って、けれど何もかもが昼間とは違った。ルキアスとの触れ合いは心地よさがすんなりと身の内へと落ちてくる。


 夜明けが近づき空が白み始めるまで、2人は飽きもせずその行為を繰り返し続けた。


 馬鹿みたいだ、と己のことをずっと冷たく嘲笑いながら、そうだとしてもやめられなかった。

 にも関わらず、魔力中和薬を飲ませた後は互いに何事もなかったかのような態度で「じゃあまた」とあっさり別れられるのだから、どうしようもない。


 アデライドは滑り込んだ冷たい寝台の中、ひとり溜め息を吐いた。

 伽藍の部屋に残してきた夫が、同じように溜め息を吐いている事など、知りもせずに。





 翌日のこと、侍女が手紙を持ってきた。

 何通もあるそれに何事かと首を傾げて中を改めると、その全てが近く開催される舞踏会や遊園会といった社交場への招待状で、アデライドは寝起き早々にげんなりとした気分を味わう事になった。


 元々、社交界にはなんの興味も抱けなかった。父親に心配を掛けないために消極的ながら参加はしていたものの、これがあの王子の差金だと思うと許容値を超える。


「伯爵家の暮らしに慣れたようならば出てみてはどうかとの、旦那様からのお心遣いでございます」

「なるほど……」


 クローデットの説明にひとまず頷き、その裏の意図について思考を巡らせる。


 招待状は高位貴族の集まりしかなく、これはファジーク伯爵家の家格を考えると不自然な事だ。

 おそらく王家の人間が顔を出せない規模のものは弾かれている。つまり、王子との逢引きの場として寄越されているのだろう。


 だが、出ろとははっきり言い渡されたわけでもない。


 昨日の話から考えるに、王子はこちらに会いたいが、国王や貴族議会が承認していない。昨日はかなりの無理を通したようなので、それで密会がはっきりと禁止された可能性が高いように思われた。

 王子は苦肉の策として、アデライドが望んで出席した場でたまたま会ったという演出をする事にしたいのだ、と推察できる。昨日の今日だというのに、懲りない事だ。


 だが、そういった意図をこちらに説明せずに投げるあたり、寄越した当人であるファジーク伯爵は貴族議会と王子の板挟みになっているのかもしれない。

 であれば、アデライドが言うことはひとつだ。


「それはありがたいけれど。このような格調高い場に、病を患う夫を差し置いてひとりで行くわけにはいかない」


 実質的に『行かない』という意味である。勿論、理屈は並べ立てただけの後付けであり、アデライド自身全く興味はない。


「え……ですが、それではいつまで経っても……」

、伯爵家とルキアス様の名誉が損なわれるような振る舞いはしない。そうでしょう? 私はルキアス様の妻なのだから」


 言いにくそうに口籠もりつつも食い下がろうとした侍女を容赦なく突き放して、アデライドは招待状の束を別の侍女へと返した。

 彼女は心情的には伯爵家寄りのようで、あからさまにホッとしたような顔でそれを受け取る。

 複数人つけられた侍女達は、同じように動いているように見えても一枚岩ではない。


「……アデライド様の忠誠心はどこにあるのですか?」

「あって然るべきところに」


 耐えきれず、と言った様子で問いを溢したクローデットに、堂々となんとでも取れる答えを吐く。

 どう捉えるかを相手に放り投げて、まあ別にそれで構わない筈だ。

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