第6話 苦しい夜が終わるといい
月が夜の天蓋を落ち始めていた。
蝋燭の減りが怪しまれないように、と燭台の火を消したルキアスの部屋は薄暗さを増すとともに、その空気も一層冷えていく。
普段は咳が出るせいで碌に眠れないその時間を、今晩のルキアスは信じられないほど穏やかに過ごしている。
飲んだ薬のお陰だ、ということはルキアス自身が一番良く理解していた。これほど息がしやすいのはいつ以来だろうか。
幼い頃は一日中咳が酷く出て、薬もよく処方されていた。だが身体が成長するにつれて、ぜろぜろと喘鳴程度に収まるようになると、誰もルキアスの息苦しさには注意を払わなくなった。他に注意を払うべき症状や状態が山ほどあったからだ。
それを理解していたから、多少の息苦しさが増した程度の事は、誰にも伝えなかった。
体力を消耗してしまう上にうるさくて迷惑な咳の発作が酷く出ない限り、その必要は無いと思っていた。
どうせ、あと半年かそこらで尽きる命なのだから。
「お水……いや、お湯、飲む? 水差しの中身、温めておいたのだけれど」
女にしては異様に抑揚に欠ける声が、暗がりからそっと響く。
ルキアスの様子を伺う気配がした。飲んだ薬が効くまで大人しく待っていたのだと、その気遣いを察するのは容易い事だ。
アデライド。昨日、ルキアスの形だけ妻におさまったばかりのその女は、僅かに話をしただけで、去勢を張るのも馬鹿らしくなるような相手だった。
一言で表すのならば、変な女と言う他に無い。
「……貰おうかな」
力なく答えると、躊躇いなく汗で湿った背に腕が差し込まれ、優しく上体を引き起こされる。
そうして渡されたカップは本当に人肌ほどに温かく、飲んだものは喉元を柔らかく潤わせながら滴り落ちていった。
彼女の触れ方には確かな労りを感じる。助かる、と思ったが、ルキアスはまだ素直に礼を言う気にはなれなかった。
アデライドの意図がさっぱり分からなかったからだ。
優しさだけの行動にしては、夜半に忍んで訪ねてくるなど不審な点が多すぎる。
「魔術……だよね。得意なの?」
「ええ、実はね。このお屋敷から好きに出歩いて、魔法薬を買って来ることができるくらいには得意」
「どうやってこの家や王子にそれを隠したの」
「家族の誰にも言わなかったから。心配させるだけだと思って。あなたは特別、旦那様だから」
「……あっそう」
同時に、不穏さを感じさせないせいで、突っぱねることも出来ないのだが。
物言いたげな視線を向けるルキアスに気が付いたのか、アデライドが笑う気配がした。
なぜこの拍子に、と訝しく思えるほど無邪気な笑い方で、その調子外れっぷりには流石のルキアスも毒気が抜かれ続けている。
「まだ、用件を話していなかったね」
ようやくそう切り出したアデライドに、ルキアスは無言で頷いて返した。
どうしてか緊張が張り詰めていくような感覚がした。腹の底がざわつくような、落ち着かない気持ちだった。
「私が魔法薬師の勉強をしていたという事はもう伝えたね。それでなんだけれど……」
話し始めたアデライドは、少々歯切れが悪い。
知らずのうちに身構えたルキアスは、自分が息を止めていることにも気が付かなかった。
「その……あなたの命を私が助けたいし、それができるかもしれないのだけど、どうする?」
途端に、ゾッと全身が怖気立つほどの怒りがルキアスを支配した。
呼吸の存在を思い出したのはその瞬間のことだ。そんな訳があるか、と衝動的に怒鳴りつけようとして、肺の中に空気が無いことにやっと気が付く。
吸うのと吐くのがこんがらがった喉は、少し遅れて、声ではなく激しい咳に噎せる。
すぐさまアデライドの手がルキアスの背に当てられ、労るように大きく撫で始めた。触れた手のひらは温かく、沸騰した感情が優しく宥められる。
「大丈夫?」
心底気遣わしげな確認に、結局、ルキアスはその一瞬のうちの激情を口にする事をやめた。
咳に紛れて頷くと、アデライドがほっと安堵を滲ませたのを感じる。
「驚かせてごめんなさい。でも、聞いてほしいんだ」
ルキアスの咳き込みが落ち着いても、アデライドは近づいた距離を元に戻さなかった。
優しく背を撫でながら話を再開させたところを見るに、口に出さなかった筈のルキアスの動揺は見抜いかれていたのかもしれない。
「あなたにとっては無神経かもしれないけれど……あなたは、本当に、とてもかわいい」
囁くように吹き込まれる声はどこまでも穏やかで、恐ろしいほどにひたむきだった。
「だからもし、老いでその美しさが枯れ衰えるより先に死んでしまうなんて事があれば、それはこの世にとっての損失なんだよ。だから、できる限りの事を私はしたい」
そのバカらしい理由がただ真実だと、受け入れざるを得ないほど。
「魔力漏出を抑える方法がある。根本的な解決方法ではなく対処法だけれど、間違いなく延命は可能のはず。必要なものはもう用意したから、すぐに試せるよ」
「……それで。僕が生き延びたら、王子の妾の話はどうするつもりなの?」
それ以上は耐えきれなかった。ルキアスは叩きつけるようにその問いを吐いて、アデライドからすぐに目を逸らした。
穏やかに微笑んでいる表情が歪むところを見たくなかったし、どんなふうに歪んでしまうのか、知りたくなかったからだ。
結局のところ、アデライドがルキアスの死を前提にした話を受け入れた事は、揺るがしようの無い事実だ。
王子の妾になるためだけに自分と結婚した女に生かされるなどと…………考えたくもない。
「一年くらいは、猶予があると思う」
「……は?」
ところが、である。
渾身の拒絶を叩きつけたつもりのユーリエルに対して、アデライドの声は全く平坦なままだった。
「外聞を気にしてわざわざ私をファジーク家に嫁がせるような事までしたのだから、王子はそれなりに私に結婚生活の真似事をさせようとしている筈。だから計画が上手くいかなくても、一年は様子を見る。不妊などで離婚の申請ができるのがその期間でしょう?」
何の感情も篭らないそれに、ルキアスは思わず身じろいでしまう。
肩が触れ合うほど近くにいるアデライドの気配は、目を逸らしていても明確で、規則正しいばかりの呼気がはっきりと聞こえる。
「離婚させたら、次は老貴族の後添えにでも再婚させればいい。初婚でさえなければ、そこまで外聞も悪くない。私に結婚させる目的は宮廷に出仕を命じるための身分を得させることだから、それで問題はなくなる」
それほどの至近距離では、目を逸らし続けるのは難しかった。
淡々と他人ごとのようにそう話すアデライドは、先ほどまでとは全く別人のようだ。穏やかな雰囲気は消え失せて面影すらなく、夜闇の中で不気味に揺蕩う銀色の影のようだった。
「一年あれば、対処法を継続するための仕組みをこの家で手配する事もできるだろうし、私が動ければもっと根本的な治療法を改めて探すこともできると思う。私の行動が何もかも無駄になるわけじゃない」
その、無感動で、投げやりにすら感じられる徹底した主観の無い態度を、ルキアスはよく知っている。
「ほら、別にあなたには迷惑が掛からない。むしろ、勝手な思惑通りに死んでやるより、良いと思わない?」
「――――――あ、」
あなたはどうなの、と、喉元まで出掛かった言葉は、寸でのところで飲み込んだ。
「……あ?」
不思議そうにアデライドは首を傾げる。無垢なまでのその仕草からは、先ほどまでの冷淡さは既に拭い去られていた。
あまりの切り替えの速さと落差に、ルキアスの心臓がどくどくと不穏な早鐘を打つ。
「あなたの、好きにすれば」
苦し紛れにそう言ってしまったのは、気が逸ったせいだ。
そう言わないといけないような気がして焦り、けれど冷笑的な自分が「やめておけよ」と酷薄に自制している事に、ルキアスは気がついていた。
それでも留めておけなかったのだから、どうにもならない。
アデライドが嬉しそうに笑う気配がする。その喜びの感情のまま、ぐいと狭められた距離の感覚があって、…………汗でベタついたままの額に、何か柔らかい感触が掠める。
心臓が煩い。
「明日また来る」
そうして、呆然とするルキアスをあっさりと置き去りにしたまま、アデライドはバルコニーへと消えてしまった。
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