第19話 妻にあわせる顔がない
目が覚めるとベッドの上に横たわっていた。
胃がムカムカとし腹にガスが溜まって破裂でもするんじゃないかと寝ぼけた頭がくだらない妄想をさせる。
トイレに行きたい気持ちと、このまま収まってくれれば二度寝が出来るという欲に挟まれ、自発的な決断をしないまま時間が過ぎていった。
ニャッニャッ、という短い鳴き声がする。
あんなに重かった瞼が簡単に開き、反射的にスマホの画面を開いた。
時間にして一秒かそれぐらいだったのかもしれないが、二日酔いを冷ますには十分だ。
七時ニ十九分。
アラームが鳴る前後に寝室で鳴いてくれるミッシェルのおかげで寝坊はしないで済んだ。
スマホを確認して今日が土曜日であること、休日出勤がないことを何度も確認し、まだベッドの上で横になっていていいことに安堵する。
そして、覚醒してきた意識で考えた。
俺は昨日どうやって家に帰ってきた?
部屋着のTシャツに寝巻き用のスウェットを履いている。髪を触りシャワーは浴びていないと想像した。
いつの間にか落ち着いていた吐き気とムカつきを横目に記憶を辿る。
ぼんやりとタクシーの風景が浮かぶ。
そうだ、結局タクシーで帰ってきたんだ。
中村さんと何かを話した気がする。
でもそれはホテルとかではなく、どこかの店だったような……。
階下の居間で微かに物音がする。
恐らく鈴木さんが何か家事をしてくれているのだろう。土日でも早朝に起きて筋トレや家事をテキパキとこなす彼女は、きっと脱ぎ散らかした俺の服も洗濯してくれているはずだ。
それなのに、節操なく酒を飲み、共通の友人を抱かないかと下品に立ち回っていた。
ベッドに飛び乗ってきたミッシェルが青い瞳で俺の顔を覗き込む。葡萄の果実のように丸く瑞々しい瞳で、小さくも筋の通った鼻を近づけて俺の何かを確認していた。
情けない俺を受け入れるようにも、主人である鈴木さんに近づけていいものか審査しているにも受け取れる。
いずれにしても、俺は俺自身の行動の善悪を自分で判断出来ないでいた。
許すか許されないか。誰かに言い切ってほしい。どっちつかずで何も得ていないのに、罪悪感だけが胃と喉に未だに張り付いている。
重い身体を起こし、階段を踏み外さないように降りていく。
俺の足をすり抜けるようにミッシェルが器用に駆けて行った。
最後の一段を飛び降りてドタンと音を立てると居間にいた主人に俺が起きてきたことを報告するように鳴く。
「朝はお喋りだね。ミッシェル」
ムカムカと灼ける胸を抑えて鈴木さんの顔を見る前にキッチンに行きグラスに水を汲む。
身体と心を慰めるような、冷たい水が喉を通り、改めて昨日飲み過ぎたことを後悔した。
いや、思い出せないが飲み過ぎなんて笑え飛ばせる程の失態をしている気がする。
無事に家に帰っていることを考えれば一線は越えていないのだろうが、それはそれで痴態を晒しているのは間違いない。
高橋と田中に合わせる顔がないな、と溜息をつくと鈴木さんに声をかけられた。
「大丈夫? 何か薬飲む?」
「ありがとう……。でも、水飲んだら少し楽に」
顔を上げて鈴木さんを見た。
夢だと思った。いや、夢であって欲しかった。
「やぁ」
返す言葉が出てこなかった。
これは自分への罰なんだろう。
背中に伝う汗は、部屋着のTシャツでは吸い取ってもらえなかった。
間違いなくそこにいるのは鈴木さんなのだが、彼女の顔は中村さんと瓜二つだった。
絞り出した声で不調を訴え、逃げるように寝室に戻る。
欲しいものがあったらLINEで連絡してね、と優しい声が背中に届く。
努めて冷静に返事をするが、その声から態度から異変が伝わっているかもしれない。
これまで何度となく鈴木さんの顔は変わっていた。知人の誰かに有名人の某に似ていることもあった。
だが、このタイミングで。
なんで、この状況で。
ベッドに横たわり、完全に醒めた意識を再び飛ばすために固く瞼を閉じる。
何かの間違いであってほしい。二度寝をすれば鈴木さんの顔が変わっていてほしい。
しかし、日を跨ぐまではまだ十数時間。
何かに縋るようにスマホを開いた。LINEを見て昨日の記憶を辿るヒントが落ちていないか。
グループLINEには店で撮ったであろう写真が共有されていた。
それを見る限りでは酔って顔を赤くした俺を笑う程度の、さして変わらない日常的な飲みの席の一場面でしかない。
ギリギリ記憶にあるのは酔いに任せて中村さんと関係を持てないだろうかという邪な感情を抱いていたという意気込みだけ。
頭を抱えながらスマホをいじっていると見慣れないLINEのトーク履歴があった。
【a.n】の個別の履歴に心臓が握られる。
開いたところで何かを思い出すことはなかったが、深夜一時にただ一つ送られていたメッセージは今の俺を締め付けるには十分だった。
「ありがとう。また今度酔っていない時にしようね」
しよう、とは何を指しているのか。
したことに対してもう一度、という意味か。
していないことに対して改めて、という意味なのか。
毛に包まれた四肢が床を歩く気配がした。
ミッシェルが声を漏らしながらベッドに飛び乗ってくる。
猫の感情は尻尾や耳の角度でわかる。表情からはほとんど何も読み取る方が出来ない。
子供のように可愛がっている猫にジッと覗き込まれるが、それすらも。
枕に顔を伏せ、現実から目を逸らす。
暗闇の中で自分と向き合い、自己嫌悪に陥る。
こんな時にも、中村さんからのLINEに何かを期待していることを自覚した。
情けなくも身体は、正直だった。
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