第17話 寝子はかすがい

 我が家には子供がいない。

 結婚して十年が経とうとしているが、鈴木さんは妊娠をしたことがなかった。

 結婚して三年ほどは避妊をしていたが、ぼちぼち子供を作ろうかと話し合った頃、友人と精子の検査キットの話をする。

 興味本意だった。

 ただの好奇心でしかなく、何か思うところがあったわけではない。

 結果、俺の精子はほとんど活動をしていなかった。


「まぁ、私べつに子供好きじゃないし」


 鈴木さんのその言葉は少なからず本音ではある。実際に結婚して数年の間避妊をしていたのは鈴木さんが子供を持つことに乗り気じゃなかったことも関係していた。

 しかし、俺は昔から父親になることを見ていた。

 大学の講義中、暇すぎていつか生まれてくる子供の名前を百通りほど考えるような遊びをしてみたり、就職時の面接で五年後どうなっていたいかを問われ『立派な父親になるべく仕事に打ち込みたい』と答えそれがどう評価されたかはわからないが今の会社に採用される。

 それが何歳の時だったかはハッキリとは覚えていない。社会人になってからの思い出はどこに住んでいたかで何歳の頃かを思い出せるが、ずっと新丸子に住んでるせいで正確な時期を思い出すのに苦労する。

 でも、当時の自分がどんな感情になったかは覚えていた。

 営業帰りの電車の中、メールで通知された自分の精子の活動量、精液の濃度、奇形率を見て、目を疑う。

 国際的な基準値を大きく下回るその数値は見慣れないものだったとはいえ、自然妊娠をする可能性が絶望的に低いことを覚悟させるには十分な少なさだった。

 田園都市線で泣いた。

 日中の人が多く乗らない電車で、唇を震わせ、顎の筋肉が締め付け、視界が涙で滲む。


「そうなんだ。しょがないね」


 その日の夜、一緒に浴槽に浸かりながら鈴木さんに謝ることしか出来なかった。

 気にしてないよ、と言う鈴木さんの声は本当に気にしていない風に落ち着いている。

 あの日から俺の劣等感は拭えない。

『精子 活動量』『正常形態率』なんて検索を繰り返し、少しでも精子に良さそうなサプリを注文し、食生活を見直した。

 不妊治療のクリニックに通い、検査を繰り返し人生初めての手術を受け、それは全て結果に結び付かずに今に至る。

 それは俺の価値観を大きく変えた。

 努力だけではどうにもならないことがある、と痛感する。

 学生時代を順風満帆に過ごし、両親のお陰で大学まで行かせてもらい、若くして好きな人と結婚をした。

 しかし、俺は子供が作れなかった。

 少しだけ、鈴木さんに原因があるのではと考えたこともある。毎日顔が変わって見えるのだ。そんな異常な現象が起こっていれば、そう思うのも責めないでほしい。

 いや、分かっている。鈴木さんの顔が変わって見えているのは俺だけで、原因は俺にあるのだと。

 言葉にするのが怖かったが、内心では諦め始めていた。諦めるための準備をゆっくりゆっくり進めていた。

 努力とは諦める為にするのだと思う。

 ここまでやってダメなら無理だったんだ、と自分に言い聞かせる為の行為。それを努力と呼ぶのだと考える様になった。


 家を買った。

 一軒家にした。

 鈴木さんが猫を飼うことを夢見ていたから。

 二人で散歩をしてはペットショップを巡り、どんな子がいいかを妄想する。

 黒猫をお迎えしたいね、と期待に胸を膨らませていたが、実際に飼ったのは白い毛に覆われたラグドールだった。


「「この子、めっちゃ可愛い!」」


 一目見た瞬間に決断する。

 相談はしなかった。四十万円という高額な値段がショーケースのアクリルに貼られていたが、二年間のローン返済がその負担を現実的なものにしてくれる。

 耳と眉間と尻尾がグレーに染まる白いオスの猫。

 宝石のように輝く青色の瞳はこちらをジッと見てキョトンとしていた。


「抱っこしてみますか?」


 ペットショップの店員が笑顔でその猫を鈴木さんに渡し、彼女はおっかなそうに抱き寄せる。

 出来るだけ大きな声を出さないように、そのフワフワの肌触りと可愛らしさに悲鳴をあげていた。

 成長すると猫の中では最も重くなるとも言われているラグドールの彼は、名前に違わずにぬいぐるみのように大人しく、何が起こっているかわからないといった顔で愛らしさを放つ。

 気がつくと俺達は購入手続きをしていた。

 お迎えをする日は新居の引越し翌日。

 鈴木さんの三十歳の誕生日プレゼントとなる。


「はぁぁぁぁ、可愛過ぎたぁぁぁ」


「お互い一目惚れだったね。黒猫じゃなかったけど」


「いいの! あの子がいい!」


 何て名前にしようか、と帰り道で話し合う。

 思えば鈴木さんから名前の案はあまり出していなかった気がする。

 俺が嬉しそうに色んな案を出しては嬉しそうにしたり、ピンと来ない表情をしていたような。


「あとは……、ミッシェルとかどう?」


「ミッシェル! 可愛い!」


 THEE MICHELLE GUN ELEPHANTというバンドをきっかけにして俺と鈴木さんの仲が近づいたというエピソードから。

 大学時代にたくさんの名前を考えていた遊びは毛色を変えて、新しい家族をお迎えするのに役立った。


 その後、すっかり大きくなり小型犬ほどの身体を丸めて眠るミッシェルを見ては、数年経った今でもあの日のように鈴木さんは破顔する。

 猫という名前は、一日のほとんどを寝て過ごす姿の寝子から転じたとする説があるらしい。

 子供を持つことは叶わなかったが、彼は間違いなく俺と鈴木さんの間の子供であり、かけがえのないものだ。


「見て! お手てがポテポテしてる!」


 愛情の向け先を得た鈴木さんはミッシェルを抱きしめ、満面の笑みを浮かべる。

 目を閉じ、うっすらと喉を鳴らすその猫を二人で囲む光景はどこから見ても幸せな家庭の一場面に違いなかった。

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