第16話 伝染と正当性
「おう。お疲れー」
定時から三十分ほど余裕を持って有楽町駅で山田と待ち合わせをした。
平日で明日も仕事とはいえ、二時間程度飲むだけであれば都合をつけるのは難しくない。
「わざわざ有楽町まで来てもらって悪いな」
「いいよ、三田線で一本で帰れるし。誘ったのは俺だしな」
お互い三十代になり、もう数年もすればアラフォーになってしまう。
まさかこんなに付き合いが続くような仲になるとは。山田と同じようにつるんでいたサークルの友達も、授業を一緒に選んでいた学科の友達も自然と連絡は取らなくなっていた。
それが自然だと思うし、それを悲しむほど繊細ではない。だが、こういった友達が一人でもいることは素直にありがたい。
「でさ、早速本題なんだけど」
歯切れの悪い言葉とバツの悪い表情が、俺の感情を波立たせた。
自分に後ろめたさがある時、いつ誰がどんな状況から自分を責め立てるかと構えてしまう。
山田は言葉を選ぶように電子タバコに手を伸ばし、俺も時間を稼ぐように電子タバコの起動を待った。
「俺さ……転職しようと思うんだけど、どっちの会社が条件いいか聞いてもらえない?」
「……またか。聞くのは全然構わないけど、今何社目だっけ」
「今六社目。で、この歳で七社ってどう思う?」
運ばれたビールジャッキを煽り、深くタバコを吸い込んだ。
渇いた喉に冷たいビールが勢いよく流れていくが、この開放感はビールの喉越しによるものだけではないだろう。
覚悟した糾弾が無かっただけで、マイナスがプラスになった訳でもない。そもそも不倫をしたわけでもなければ、山田がその事実を知る由もない。
要らぬストレスから解放された俺の舌はいつもよりも回った。
悩む相手に偉そうに質問をし、自分なりの意見を並べ立てる。そうだよなぁ、と真芯で受け止めてくれる山田を見て、つい視線を外して吐いた煙を追ってしまう。
「いやぁ、佐藤に話せてよかったわ。美穂に相談しても……。なぁ? 心配されるだろうし本音では話してくれないだろうからさ」
山田の奥さんである美穂さんとも面識があり、何度か麻雀や飲みで遊んでいる。
山田より七つか八つ年下だが、非常に懐が広く、山田が転職を繰り返していてもあまり気に留めていない様に見えていた。
「美穂さんなら応援してくれると思うけどな」
「応援してくれちゃうから、心配かけたくねぇんだろ」
俺たちも若くないんだから、無茶な転職はもう出来ないな、と散々会社を移り変わってきた山田がしみじみとジョッキを傾けた。
新卒から同じ職場で働き続ける俺を、よく同類かのように扱えるな、こいつは。
「そんなことより、今度北海道行ってくるんだ。欲しかったら蟹送ってやるぞ」
「蟹かぁ……。うちの奥さんは蟹好きじゃなかった気がするんだよなぁ。冷蔵庫を圧迫するだけだし遠慮しとくわ」
蟹を断るやついるのかよ、と悪態をつかれながらも山田は当面の悩みが解消された様で酒の進むスピードが早くなっていく。
「美穂さんの実家に行くついでに旅行か? 羨ましいね」
美穂さんの実家は秋田だったはずだ。秋田のどこかは知らないが、そこまで行ってしまえば北海道に出るのも大して負担じゃないのかもしれない。実際の距離は全く掴めないが。
「いや、それがよ……。会社の先輩と先輩が狙ってるとか言う女の子とその友達で四人で行くんだよ。羨ましいだろ?」
「それって……マズいだろ」
既に溢れかえっていた灰皿を横目に、更に電子タバコを起動させた。
酔いも回り、口が滑りそうになる。
山田が目の前で目下の悩みから解放され、次は俺の番だろと自分の話をしたい気持ちもありつつ、予期せぬタイミングで不倫ないしは女遊びの話を始めてくれたんのだ。まずは山田の意見を聞いておきたい。
「マズいよなぁ……。でも、相手も三十歳ぐらいらしいんだ。もちろん独身な」
「それぐらいって一番結婚意識するんじゃねぇのか? 余計リスクあるだろ」
「お前は昔から正論しか言わない! そんなこと聞きたくない!」
ふざけて幼児退行をする山田を笑い合うが、美穂さんとも面識がある手前、軽はずみに山田に過ちを犯してほしくない。
しかし、心のどこかで……。
身近で、気のおけない、年代も変わらない、既婚者の、一人の男としての意見を聞いてみたい。
俺の正論を言い負かしてほしい、という他力本願が顔を覗かせていた。
「山田、お前は昔『普通の女と不倫するなんて馬鹿だ。人生狂ってもいいってほどの美人との不倫じゃないと割に合わない』って言ってたぞ。その女はそんなにいい女なのか?」
「佐藤、俺はまだその人とセックスしていない。だから不倫はしていない。ただ旅行に行くだけだ」
「美穂さんには何て言うんだ?」
「出張」
「やましいと思ってんじゃねぇか! 不倫じゃないなら『男女四人で北海道行ってくるよ』って言えよ」
「言うわけねぇだろ! 美穂が心配するし誰も幸せにならねぇだろうが!」
ああ言えばこう言う。侃侃諤諤。
昔からこうだった。山田は自分の気持ちに素直なやつで、俺はそれを窘める。
まだ青臭い大学生であれば笑えるが、良い大人になると正論を吐いているのも何だか痛痒かった。
しかし、山田といると戯れ合う様に相手を否定出来る。
自分を棚に上げて、思い切り非難を浴びせられる。
二人とも酒にあまり強くないので、徐々にジョッキの酒が減らなくなっていった。
楽しい時間もあっという間だなと思い始めた頃、山田の言葉が妙に耳に残る。
「ちょっと知ってるってぐらいの女が一番興奮するんだよ。全く知らないやつはダメだ。その辺歩いてる他人と変わらない。親しくなり過ぎてもダメだ。そいつとの今後を考えちまう。これが最後になっても惜しくないってぐらいの付き合いで、その中で仲が良い女ってのが一番良いんだよ。AVの導入ってのはその為にあるんだ」
一回のセックスに気合い入れ過ぎなんだよ、と笑い合う。
しかし、頭の中では中村さんと飛行機に乗り、北海道で蟹を食べ、夜には裸で抱き合うところを想像してしまった。
お互い明日の仕事に差し支えない様に、程々のところで妻の待つ自宅に帰ることにする。
「じゃあ、また誘うわ。北海道の話楽しみにしてるぞ」
「おう、来たかったら言えよ! 向こうにお願いして男女六人にしちまおう!」
山田は日比谷駅の方へと足取り軽く去っていく。
俺は果たしてどうしたいのか……。
どうしたいのか、何て馬鹿みたいな自問自答に恥ずかしくなる。
俺は鈴木さんを傷つけたくないし、中村さんとまた会いたい。
矛盾しているように思えるが、その気持ち自体は捻らず真っ直ぐな思いだ。
自覚することで罪悪感が薄れていく。だってしょうがないじゃないかと言い訳をする自分がいる。
そして新たに危機感が芽生えた。失うものの多さとそれが尾を引くという時間的な長さ。
それを凌駕できるわけがないのに。
昔好きだった女の子という属性は、どんなに物を乗せた天秤であっても丁度良く釣り合わせるぐらいに甘美な響きがあった。
そして、しばらくは中村さんを妄想の中で犯してしまい、それに自分自身満足していた。
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