第14話 妄想と現実の狭間で
あの日のことは何度思い返したかわからない。
中村さんとの最後の思い出だったから。やけに印象的な時間だったから。自分に都合の良い妄想をしやすい状況だったから。
高校三年の三学期。当時はまだセンター試験という名称の共通テストが終わり、各自の大学受験日に向けて最後の追い込みという時期だった。
一月の末だったか、二月の頭だったか。
さすがにそこまでは覚えていないが、放課後にクラスメイトの何人かで束の間の休憩をしていた。
単語帳を片手に問題を出し合ったりしながら本気で勉強をする気もなく、本気で遊ぶつもりもなく、どっちつかずの時間を過ごしていく。
男子が四、五人。女子も小林を含めて四、五人いた気がする。それぞれ教室の前後に偶然残っていただけなので特に男女間に会話らしい会話は無かった。
「なんか塾の自習室まで行って勉強するの面倒だな。佐藤もこのまま教室で赤本でも解かない?」
クラスメイトの山口にそんな風に声をかけられた、気がする。
特に断る理由もなく、そのまま男子全員が自分の席で試験と同様の時間を使って志望大学の過去問を解くことになった。
当時の俺は教卓の前にあたる教室の中央の席だったことは覚えている。
正確には前から二列目で左斜め前には中村さんの席がある。その頃には一つ年下のサッカー部と付き合っていることを知っていたので理不尽な怒りを中村さんの後頭部にぶつけていた。我ながらしょうもないが、それも年相応なのかもしれない。
その教室に小林がいたのは覚えている。
席につき真面目に問題を解いていた途中で声が聞こえた。
「じゃあね、彩」
小林の声がして数人いた女子生徒が全員帰ってしまった。
「じゃあな、佐藤」
山口の声がして一緒に過去問を解こうと言っていた男子生徒が全員帰っていくところだった。
「……は?」
え、どういうこと? みんなで過去問解くんじゃないのかよ。
受験勉強なんて結局のところ自分との戦いなのだから、わざわざ友達と時間と場所を共有する必要なんてない。
まして、しっかりと実際の試験を想定して時間まで測って過去問を解いているのだ。
先に帰るなよ、一緒に行こうよ、なんて言うつもりはない。
なんだったんだ、あいつら。
気が逸れたものの、改めて過去問に向き合う。
冬の教室は足元が冷えていたが、ゴウンゴウンと音を立てるストーブが顔の表面を突っ張らせるほどに空気を暖める。
ストーブの上に中村さんが座っていた。
振り向くような姿勢で窓の外を眺めている。
俺の教室は二階にあり、窓の下には自転車通学をする生徒の為の駐輪場があった。
先程教室を出て行った小林達を待っていたのだろう。しばらくすると中村さんが窓を開けてバイバーイと元気に声をかけている。
普段は四十人が机を並べている教室に中村さんと二人。
数ヶ月前の俺であれば緊張はあれど有頂天になっていそうな状況だった。
だが、その時の俺は気まずいという感情と何で中村さんだけ残ってるんだよという怒りと早く過去問を終わらせて俺も帰ろうという投げやりな気持ちが混ざり合う。
時計の針とストーブの音。
平日の昼下がり。受験直前というイレギュラーな時期が不思議な空間を作っている。
上の階では二年生が普段と変わらず午後の授業を怠そうに受けたり教師の目を盗んでケータイを触ったらしているのが目に浮かぶ。
俺が解いていた中央大学の世界史の過去問は選択肢の多いもので、世界史を何より楽しんで勉強していた身にはそれほど難しいとは感じなかった。
問題文に集中するが一問解くごとに意識がストーブの方へ向く。
いや、中村さんへ向いている。
何してるの? と聞きたい気持ちを抑え込み、シャーペンでルーズリーフに回答を刻んでいく。
選択肢を適当に選んでしまう。
振られてから半年が経っていた。あの夜、電話で意味もわからず別れを切り出されてから中村さんとは一言も話していない気がする。
よくわからないサッカー部と付き合ったという話を聞いてからまともに顔も見れていない。
俺が今したいことは大学合格の確率を上げることではない。
中村さんと二人きりというこの機会を活かし、話しかけたい。
何で俺は振られたんだ。サッカー部の後輩と付き合ったという話は本当か。何で小林達と一緒に帰らなかったんだ。振った相手と教室で二人きりになるのは気まずくないのか。何か用事があるにせよ何処かで時間を潰せないのか。
「ねぇ! 雪降ってきたよ!」
頭を埋めるドロリとした俺の恨み言など知る由もなく、快活な声が乾燥した教室に響く。
問題を解いているフリもせず、聞きたかった声がする方へ顔を向けた。
俺が気付かなかっただけで誰か他の人に話しかけていたらどんなに良かったか。
半年振りに見る中村さんの俺に向けた笑顔は、それまでの情けない八つ当たりや嫉妬を一瞬で吹き飛ばしてしまう。
「あ、ごめんね。頑張ってるところに声かけちゃって」
「いや、大丈夫。今日寒いからね」
悔しいけど嬉しかった。
悲しくなるほどに、まだ好きだった。
振られたあの日、大学受験が終わったらもう一度告白をしようと思っていた。
中村さんに新しい彼氏がいるなんて知らなければ。
過去問がもうすぐ終わろうとしていた。
これを終わらせたら中村さんに話しかけよう。
努めて冷静に、舞い上がって告白などしない。当たり障りない会話をしよう。もうすぐ卒業だね、あっという間だったね、なんていう言葉ぐらいで今の俺には十分だった。
「あれ、何してんの?」
吉田の声が教室の後ろから聞こえてきた。
空気を読めない男だと思っていたが、狙ったように一番来てほしくないタイミングで静寂を壊す。
いや、吉田もクラスメイトなんだし全く悪いことはしていないのだが。
寒い寒いと言ってストーブに腰掛ける。必然的に中村さんと隣り合って暖を取っていた。
吉田は元々お調子者だし中村さんとも仲が良かったのでその光景は珍しいものではない。
だが、今は見たくなかった。
そこからの記憶はほとんどない。
二人で何かを話していた。それは別に内緒話でもなく音として俺にもしっかりと届いていたはずだが、会話として認識することはなかった。
最後の設問を解き、帰り支度をする。
筆箱とルーズリーフと赤本を学生鞄に粗雑にしまうとマフラーを首に巻くこともせず、教室を出る。
「じゃあね」
吉田と中村さんに最低限の挨拶を済ます。
吉田は屈託なく手を振った。あいつは俺と中村さんが付き合っていたことを知っていたのだろうか。教室に気まずい二人がいると思い和ませようとしてくれたのだろうか。
中村さんがバイバイと声をかけてくれた。背中越しだったのでどんな顔をしていたのかはわからない。
玄関口を抜け駐輪場を通ると教室の窓から中村さんが身を乗り出していた。
「バイバイ!」
その時の中村さんの顔を覚えていない。
笑顔だった気もする。あなたとはただの友達だよね、と強調するように。
悲しそうだった気もする。本当は今の時間に何かを話したかった、と思わせるように。
卒業してもしばらく中村さんのことを引き摺っていた俺はこの日のことを繰り返し思い出しては自分に都合の良い妄想をしていた。
本当は年下のサッカー部となんて付き合っておらず、本当は俺のことを嫌いになってなどいなかったのだと。
「じゃあね」
妄想の中の俺は笑顔で中村さんに挨拶を返す。
現実の俺はどんな顔で中村さんに応えたのだろうか。
それが中村さんとの最後の思い出だった。
卒業アルバムに中村さんからメッセージを貰うこともなく、その数年後に結婚式でビデオレターを貰うだけだった。
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