第8話 宝物とドッペル
昨日は寝坊してしまったが、今日はちゃんと7時に起きることができた。
クローゼットの中の小雪を起こして、リビングで両親と朝食を食べる。
2人を見送って部屋に戻ってくると――小雪がまっすぐに私を見てきた。
その手には、しっかりと淡藤色の日記帳が握られている。
眉をぎゅっと寄せて唇を引き結んだ顔は、不満がある時の私に似ているのだろうか。
「……雪、昨日は日記書いてないの?」
「え? あぁ……うん」
「その前も、前も、書いてないよね?」
「……うん」
小雪は、毎朝私の日記を読んでいる。
彼女にとって唯一の娯楽と言えるかもしれないそれは、4日程前から更新を停止していた。
「何で書いてないの?」
少し冷たい声に、何と答えればいいのかわからなくなる。
「書くこと、ないなって」
取り繕っても無駄な気がして、正直に答えた。
いつだってスラスラと埋められたはずの1ページを、埋められなくなってしまった。
今日ものんびりした。なんて味のない1行で歩を進めるくらいなら、綺麗な白紙のままでいてほしかった。
「そっか」
小雪はぽつり、とそれだけ零した。
声が落ちるのと一緒に、視線も日記帳に落ちる。
「……雪、前から言おうと思ってたんだけど……」
それから再び顔を上げて、真っ直ぐに私を見た。
「――学校、行った方がいいと思う! 家事……特に料理も、自分でした方がいいよ」
「……え」
思いがけない提案に、喉から漏れたのはたった1音だった。
止まりかけた頭を回して、次の言葉を紡ぐ。
「何で?」
小雪はドッペルロボット。私の代わりをするために生まれた存在。
私が自分でそれらを行うは、小雪の存在意義の喪失に繋がる。
自らの存在を否定するようなことを、ロボットは言わないと思っていた。
「雪の望みが、叶ってないからだよ。雪が私を買った理由は、何だった?」
「それは……」
「『毎日が非日常みたいな、素敵な1日にしたい!』だよ」
私とそっくりな声が、いつかの私の言葉を繰り返す。
そう、私は日常から抜け出したくて、非日常が欲しくて小雪を買った。
「それは今、叶ってないよね。毎日が非日常? 素敵?」
「…………叶ってない」
小雪の言う通りだった。
小雪を学校へ行かせ、私は好きなことをして過ごす。
それは無期限の夏休みのように、私にとって当たり前の
それにも飽きて、ただ時間を食い潰すだけの空虚な生活になって――素敵とも、言えなくなっているかもしれない。
「でしょ、だから――」
「だからって、何で学校に行かないといけないの!? 家事だって、自分でやらなきゃいけないの?」
この生活を続けたって、私の望む1日は手に入らない。
それは、私もわかっている。
だからといって学校生活や家事を自分でやって、何になると言うのだ。
「私が来る前の雪の毎日が――非日常みたいな、素敵な1日だったからだよ」
小雪は表情を緩めて、柔らかく笑った。
直接心を撫でるような言葉に、変な感覚がする。
「雪は、日記を読み返したことある?」
「……あんまり」
ダンッと音を立てて、小雪が日記帳を机に置いた。
カーテンが大きく揺れた気がして、すぐに私の視界が揺れたのだと気づく。
小雪は私の腕を掴んで、引き寄せたのだ。
「4月7日、今日から2年生! 里香と同じクラスで安心した。森田くんとも同じクラスになれて、ちょっと嬉しかったりして。これから話す機会があったらいいな」
日記帳を開いて、小雪がその一部を読み上げる。
4月8日、席が近くの子達と仲良くなれた。明日は里香だけじゃなくて、この子達とも一緒にお弁当を食べる約束をした!
4月9日、4人でカフェの新作ドリンクを飲んだ! カナは桜があんまり好きじゃないって言ってたけど、1口あげたら美味しいって言ってた。
パラパラと捲って、少し読む、またパラパラと捲って、少し読む。
4月20日、今日はママの誕生日だから、晩御飯はグラタン! 喜んでもらえて嬉しかった。
小雪は早口で、それを繰り返していく。
5月11日、英語の小テストが3点だったけど、優紀が教えてくれたおかげで再テストは大丈夫だった。
5月12日、お弁当をキャラ弁にしたら、みんなにいっぱい写真を撮られた(笑)
「5月14日――」
「小雪、恥ずかしいからやめて!」
私が止めると、ようやく小雪は顔を上げた。
日記から手を離して、真っ直ぐに私を見る。
「どの日も楽しそうでしょ? 似てるけど、おんなじページなんて1つもなくて、どれも素敵な、雪の非日常」
きゅっと目を細めていて、これまでで一番口角が吊り上がっている。
優しい笑顔は、私が誰に向ける顔だろう。
鏡にも、アルバムにも、こんな顔はなかった気がする。
「……でも雪の報告は、いつもおんなじだった」
「それはスケジュールを説明してるだけだから。雪の素敵は、別のところに隠れてるんだよ」
苦し紛れの不満を簡単に振り払って、小雪は笑った。
「今日は雪が学校に行ってみてよ。つまらなかったらまた明日から、私が行くからさ」
小雪がそっと、私の手を握ってくる。
温もりが手から伝わってきて、全身に広がっていくようだった。
「……わかった」
小雪が頼むから、無理に了承したのではなくて。
私は自分の意思で、学校へ行ってみよう、と思えた。
こんなにもキラキラとした宝物を――もう一度、書きたかったから。
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