第5話 不穏な気配

古代

縄文時代前期の頃には生駒山の麓まで河内湾であったこの付近も、中期に入ると縮小に入り弥生時代には河内湖へと変貌し、中垣内や野崎、北条辺りに集落がつくられた。

古墳時代に入ると、堂山古墳群など飯盛山の麓一帯に多くの古墳が造営された。この頃になるとこの地域は国の歴史の流れに組み込まれるようになり、西大寺の荘園であった「河内国更占(讃良)郡須濱庄」(現須波麻神社周辺)が奈良時代の文献に残されている。また当時、土地開発(条里制)がおこなわれたが、その名残が中垣内から北条という地名に残っている。


中世

平安時代になると河内湖は更に大きな池へと変化した(枕草子/勿入渕(ないりそのふち)と呼称されている)。それに合わせるように東高野街道沿いには集落ができ、とくに奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川や中垣内辺りは交通の要衝として重要な地となった。大東市含めこの地方は古代より水害に見舞われることの多い地域ではあったが、利点として豊富な魚介や特産物の蓮があり、そのため今の赤井付近には皇室の食料を調達するための供御領が存在した。またこの頃になると低地開発がすすみ集落がより拡大した。

戦乱の世になると、東高野街道をはじめとするこの地域は戦略上重要な場所となり、たびたび舞台として名が登場する事となった(四條畷の戦い、飯盛山城)。この頃、東に深野池、西南に新開池と2つの池に範囲が確定し、深野池に浮かぶ島には飯盛城の支城である三箇城(現存せず/三箇菅原神社)があった。城主の三箇氏はキリシタンでこの地に教会を建設するなど、意欲的に活動を行い、それは宣教師ルイス・フロイスによって欧州にまで伝えられていた。


近世

1704年の大和川のつけかえとそれに伴う深野池、新開池の干拓、新田の造成は地域の姿を一変させた。とくに本願寺難波別院が中心となって行われた新田開発は各地からきた開拓民によって進められ、それらの定着は以降の農業の歴史において大きな力となった。結果、稲作を中心に木綿、菜種などの生産高は飛躍的に増大し、「天下の台所」と称されていた大坂を支える地位を確立。また農業生産の伸びは地域を発展させ、大坂―奈良の中継地として農産物の集散地として貸客舟運の拠点(角堂浜、住吉神社)として大きな賑わいを見せた。野崎観音参りなど都市部との行き来も盛んになった。これらは「河内名所図絵」や「人形浄瑠璃―お染久松」を通して窺い知れる。


近代

江戸期に引き続き、豊かな農業生産を基礎に大阪を支える支柱となった。地元篤志家による私学校、深野郷学校の開設、1892年(明治25年)の片町・四条畷間の鉄道、浪速鉄道の開通(のちに国鉄片町線となった)など近代化が推し進められた。大正に入ると人口が1万人を超え、電灯の設置や上水道整備を実現させ、特に浄水場の建設は情勢からすれば画期的なものであった。大正から昭和初期にかけて少しずつ人口は増え続けた。

1895年(明治28年)、住道駅南側に繊維会社の摂河紡績住道工場が稼動を開始、1899年(明治32年)に同工場は鐘淵紡績(後のカネボウ)へ譲渡され、鐘淵紡績(カネボウ)住道工場となり、化学繊維の普及などから1975年(昭和50年)に閉鎖されるまで76年間にわたって"繊維の街"として栄えた。同工場の跡地にはベルパーク住道マンションや大東四條畷消防本部、大東市総合文化センター、大東市総合福祉センターなどが建設されている。


 結城が歴史の書物を読みふけっていると、周囲の空気が一瞬にして変わった。視線を上げると、そこには追っ手の影が忍び寄ってきていた。彼らは鋭い目つきで結城を睨みつけ、無言のままゆっくりと距離を詰めてくる。


 結城は歴史の深淵に心を奪われていたが、この不穏な気配に素早く反応する。追っ手たちの足音が近づく中、彼は静かに書物を閉じ、その場を立ち去る決意を固めた。古代の記憶と現代の危機が交錯する中、結城の冒険は新たな局面を迎えるのだった。


 

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ESCAPE③ 大東連続殺人事件 鷹山トシキ @1982

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