龍華鈔

別海ベコ

泣いた朝陽がもう笑う ①

 いつの日か、うららかな陽のなかで、皇子おうじに語ったことがある。

 

「中ノ原から漕ぎ出て、東へ東へ進んでいくと、ちょうど水平線のあたりに、世界と世界の境目がございます。常世に囚われた只人ただびとはそこで引き返すほかないのですが、数奇にもあちら側へと辿り着けたのならば、勇気を出して、ざぶんと海に潜ってごらんなさい」

「ざぶんと?」

「はい、ざぶんと。そうすれば、貴方にも見えるはずですよ。昇る前の朝陽がみのる場所、十の太陽が輝く大樹、扶桑樹のすがたが」

「扶桑樹? 扶桑樹なら、あそこに在るでしょう」

 山のてっぺんを指さし、不思議そうに問う未来の皇帝に、歳華さいかは微笑んだ。

泰青国たいせいこくの扶桑樹は、仙境の果てに在るまことの扶桑樹より流れ着いたただの一枝ひとえだ。ゆえに、この地に太陽はひとつのみ。その化身たる私も、所詮は代えの利く枝に過ぎぬのです」

 

 あれは、何年前だったろう。

 人の子の成長は早い。歳華がまばたきをする間に姿を変えていく、万華鏡のような命だ。自身がどれほどやんごとない身の上かも、治める国の由来も知らず、不思議そうに首を傾げた、幼い皇子。あれからずいぶん立派になって、泰青国たいせいこくの皇帝として、日々政務に追われている。数多の皇帝を見てきたが、彼には才がある。これからきっと、名君に育っていくはずだ。

 この国が、続いていくのなら、の話だが。

「……」

 歳華は天壇てんだんの石畳を踏みしめ、前へと歩いた。通常、儀礼に用いる開けた広場が、今宵の合戦場だった。他に人の影はない。只人ただびとは手出しせぬようきつく言い含めているからだ。兵士たちはみな、はるか後方の陣営から、こちらの様子を伺っていることだろう。

 泰青国たいせいこく

 肥沃な大地、穏やかな河川、そして、扶桑樹の分木わけぎを抱える、太平の国。実りは豊かで、あまねく災いと無縁とあれば、人が寄り集まるのも必然であろう。都・華胥城かしよじようの人々は、いつものんびりと、賭けや芸に興じている。

 ――――歳華が、命を注いで支え続けた国だ。

 この国のためなら、なんだってしてきた。民が望めば実りを与え、民が嘆けばいなごを焼き、ありとあらゆる手立てを使って、災いを取り除いてきたのだ。

 だから今回だって、なんとかできる。

 いや、なんとかしなければならない。

 それだけが、私の価値で――――なにも守れぬ私に、意味などないのだから。

 

「久しいな、金のからす

 夜空に、声が響いた。見上げれば、とぐろを巻く雷雲を背に、空中に浮かぶ影がある。背の高い男で、長い黒髪を風にたなびかせながら、歳華を悠と見下ろしていた。黒尽くめなうえ、あたりも暗く見えづらいが、よくよく観察すれば、彼が着ているのが王族の礼服、袀玄きんげんであると分かる。それだけで身分を示すには十分だが、駄目押しは、頭から屹立する、一対の角だ。

 北方の恒玄国こうげんこくを統べる王。龍のなかの龍、讃えて呼んで玄龍君げんりゆうくん

 しかし歳華には、本人の名のほうが口に合う。

「お久しぶりですね、辰星しんせい。龍角を露わにするなんて、物騒な」

「そちらこそ、翼を外に見せるのは珍しいんじゃないか。人の真似をしてごろごろ過ごすあいだに、飛びかたも忘れたかと案じていたが」

「失礼ですね。私は国中を飛び回る身、この両翼だって、しっかり現役ですよ」

 背中の翼を動かせば、輝く羽根がはらりと舞う。この身はからすであるものの、翼も髪もすべてが金色だった。扶桑の枝とともに中ノ原に流れ着きし、太陽の鳥のすがたである。

「……相も変わらず、目にうるさいやつだ」

「辛気臭い真っ黒男に言われたくはないです」

「それで? 俺がじきじきに出向いたというのに、下働き身一つで出迎えとは。泰青国は大層豊かな国と聞いたのだが、実情はこんなものか」

「おあいにくと、もてなしの相手は選んでおりますの。貴方のような無作法者に、かける真心なんてございませんわ。むしろ、私が来ただけ、感謝してほしいものですね」

「よくも言う。華胥ひるねにかまけているあいだに、頭の中まで春になったか?」

「春で結構。頭の中まで鱗でできた御人に比べれば、幾分ましというものでしょう」

 薄ら笑いを浮かべてはみるものの、背の冷や汗は止まらない。

 中ノ原の五大国のうち、東の泰青国たいせいこくと北の恒玄国こうげんこくは歴史的な同盟関係にあり、三千年にわたる平穏を築いていた。盟友の恒玄国が我が国に挙兵した、と報が入ったのが、ほんの三日前。最初は冗談を疑った歳華だが、空を暗雲が覆い、昼夜を問わず稲妻が響くようになれば、信じざるをえなかった。恒玄国の龍たちは水を呼ぶ。やがて雨まで降り始めれば、平地の多い泰青国は、すぐさま水に沈むだろう。

 腹をくくって戦場いくさばにひとり出向いてみれば、対峙する相手もまた、ひとりだった。斥候の報告を思い返してみれば、「兵士」の特徴はみな、辰星しんせいのそれと一致している。その力があまりに強大だったもので軍隊と勘違いされたが、じっさいは、辰星ひとりで東に攻め入ったらしい。 

(気が合うというか、なんというか……)

 結局、行きつく結論は同じだったようだ。結局、兵の多寡にたいした意味はない。神獣の相手は、神獣にしかできないのだから。

 そう、知っているからこそ、泰青国たいせいこくの神獣として戦支度いくさじたくを整えた。

 そして、もうひとつ知っていることがある――――歳華では、辰星に勝てないと。

「さて、覚悟はできたか、鴉」

 くろの龍が、悠然と口にする。

「そちらこそ。しいっかり歯を食いしばってくださいね、龍」

 金の鴉は、気丈に笑う。

 神獣にも得意不得意があり、こと戦いにおいて、辰星の上に立つ者はこの中ノ原に存在しない。そんなことは嫌というほど分かっている。

(勝ち筋が皆無なのは重々承知……ならばせめて、最良の負け筋を捕まえねば)

 この背には、泰青国のすべてが乗っている。その覚悟とともに、高らかに口にする。

「扶桑の分木わけぎよ、我が呼びかけに応じよ!」

 風が起こった。

 春の始まり、芽吹きの季節に大地を巡る、恵風けいふうだった。

 風元は泰青国たいせいこくの最高峰、泰山。その頂きに立つ扶桑の大樹より、風、そして光が、溢れ出てくる。

「これは……」

「絶景でしょう? あなたにお見せするのは、いささか勿体ないかもしれませんが。さあ、ここからが、本番です」

 歳華は金の両翼を、大きく広げた。

「我が魂、我が命をここに捧げよう!」

「……待て。歳華、本気か?」

「なにを愚問を。……これ以上の気張りどころなど、あるものですか!」

 光る風が大地を覆い、やがて大地そのものが輝き始める。それは一見、ごく普通の――――東から昇る朝陽が夜を終わらせるという、ありふれた光景のように見えた。

(そう。私がもたらすのは、ありふれた平和でいいのです)

 泰青国たいせいこくの民の、平穏な朝。そのためならば、命だって惜しくない。

「くっ……ぅ……」

 その場に跪きそうになるのを、必死に堪える。身体が鉛のように重い。扶桑樹に命を吸われているのだ。しかし、身を削った甲斐あって、辰星の呼び込んだ雷雲らいうんがみるみるうちに霧散していく。

 これならいける。これなら、勝負になる。

 微笑む歳華とは対照的に、辰星の顔には、焦りが浮かんでいた。

「歳華、なにを」

「……見くびりましたね。窮鼠は猫にすら噛みつくのです。その爪、頂戴致しますよ」

 高鳴る動悸が、骨を揺らしている。呼吸は不規則で、立っているだけで苦しい。しかも、この苦しみは死ぬまで続くのだ。この戦いの果て、歳華は無惨な塵となる。

 けれど、それでもよかった。

 この身は所詮、一本の枝に過ぎない。分木が腐れば、新しい太陽がこの地に来る。

 だからもう、大丈夫。

「――――泰青国の民よ、さようなら」

 彼らのためになにかできるのならば、私は。


「姉様!」


 予期せず響いたその声に、歳華の集中が途切れた。

 まさか。どうして貴方がここに。混乱のまま振り向けば、青年がひとり、馬に乗って走ってくる。顔立ちはまだあどけないが、黒に赤を合わせた玄衣纁裳げんいくんもの仕立ては、泰青国の皇帝の証しだった。

 姓は陽、名は駿で、陽駿ようしゅん。公には蒼帝そうていと呼ばれるが、家族だけは駿と呼ぶ。

 歳華を姉と慕ってくれる、泰青国の若き皇帝だ。

(どうして、駿が)

 歳華は出立のおり、何人たりとも戦場いくさばに近づくな、と告げた。それは無論、皇帝である陽駿も例外ではない。あの龍が本気を出せば、人の子など、指も動かさずに殺せてしまう。そのうえ、いまの陽駿は、ただひとりの護衛も連れていなかった。

「……ほう。蒼帝自らお出ましとは、少しは外交の作法を思い出したか」

 辰星のまなざしが、鋭さを増した。

 歳華は叫ぶ。

「駄目です、駿! 貴方は遠くへ逃げて! 私がこいつを押さえているあいだに、どうか、少しでも……!」

「――――遠く? おかしなことを言うのですね」

 陽駿は馬から降りると、惑いのない足取りで、歳華のもとへ歩いてくる。その腰元に、見覚えのある鞘を見つけて、歳華は戸惑った。

「貴方、それは……どうして」

「どうしてもこうしても、遠くに行くのは、姉様、貴方のほうですよ」

「……え?」

 彼はなにを言った。自分はいま、なにを言われた。

 呆然とする歳華の眼前で、銀の光が閃いた。鞘から抜き放たれたのは、扶桑の葉の彫り細工が施された、美しいばかりの飾り刀だ。その切っ先が自分に向けられているのを見て、ようやく、事態を悟る。

(――――ああ)

 知っている。知っているとも。それは泰の王家に伝わる宝剣で、儀礼用の代物だ。目を惹く美しさこそあれど、敵を切り刻む鋭さなどない。

 けれど、いまこの場においては、十全に致命傷をもたらした。

「蒼帝の名をもって告げる。三千年の昔より、泰青国を導き続けた金鴉娘娘きんあにやんにやんよ。我らは、今日こんにちをもって、貴方と訣別する」

「や、やめてください、私はまだ、戦えます、戦えるから」

「――――くどい。私の決定に、異を申し立てるつもりですか?」

 足元が、がらがらと崩れていくような感覚があった。

 息が苦しい。指が震える。

 私はただ。貴方たちを、守りたくて。

 それだけが、私のすべてで――――それしか、私にはなくて。

「つまり、だ」

 辰星の声が、無情に響く。

「泰青国は、この鴉を差し出す決断をしたということで、よいな?」

「無論。そもそも、神獣の一人と貴国との和平、秤にかけるまでもないですが」

「聡明でなにより。同盟国として、心強いな」

「こちらこそ。今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます」

 身体から、力が抜けていく。術は霧散し、命を振り絞り灯した光も、夜闇に呑まれていった。ふたたび雷鳴が響き始めるなか、歳華は叫んだ。

「待ちなさい、辰星! いつ駿を脅したのです! 私はそんなこと、ひとつも……!」

「脅す? 俺は蒼帝と交渉をしただけだ。その女がほしい、寄越さないのならば泰青国を侵攻する、と。それに対する蒼帝の結論がこれだ」

 陽駿はうなずいた。

「扶桑枝の一本で、ことが収まるならたやすいことと判断しました。貴方の教えの通り、この国の未来について、私自身が考えた結果ですよ」

「……駿」

 雨が頬を濡らしていく。その場に膝をつく歳華を疎むように、駿は背を向けた。

「ここからは人が築いていく時代だ。神獣の加護は、もう要らない」

 歳華が、三千年守り続けた国は。

 朽ちた枝を鉄鋏はさみで落とすように、歳華を切り捨てたのだ。

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