龍華鈔
別海ベコ
泣いた朝陽がもう笑う ①
いつの日か、うららかな陽のなかで、
「中ノ原から漕ぎ出て、東へ東へ進んでいくと、ちょうど水平線のあたりに、世界と世界の境目がございます。常世に囚われた
「ざぶんと?」
「はい、ざぶんと。そうすれば、貴方にも見えるはずですよ。昇る前の朝陽が
「扶桑樹? 扶桑樹なら、あそこに在るでしょう」
山のてっぺんを指さし、不思議そうに問う未来の皇帝に、
「
あれは、何年前だったろう。
人の子の成長は早い。歳華がまばたきをする間に姿を変えていく、万華鏡のような命だ。自身がどれほどやんごとない身の上かも、治める国の由来も知らず、不思議そうに首を傾げた、幼い皇子。あれからずいぶん立派になって、
この国が、続いていくのなら、の話だが。
「……」
歳華は
肥沃な大地、穏やかな河川、そして、扶桑樹の
――――歳華が、命を注いで支え続けた国だ。
この国のためなら、なんだってしてきた。民が望めば実りを与え、民が嘆けば
だから今回だって、なんとかできる。
いや、なんとかしなければならない。
それだけが、私の価値で――――なにも守れぬ私に、意味などないのだから。
「久しいな、金の
夜空に、声が響いた。見上げれば、とぐろを巻く雷雲を背に、空中に浮かぶ影がある。背の高い男で、長い黒髪を風にたなびかせながら、歳華を悠と見下ろしていた。黒尽くめなうえ、あたりも暗く見えづらいが、よくよく観察すれば、彼が着ているのが王族の礼服、
北方の
しかし歳華には、本人の名のほうが口に合う。
「お久しぶりですね、
「そちらこそ、翼を外に見せるのは珍しいんじゃないか。人の真似をしてごろごろ過ごすあいだに、飛びかたも忘れたかと案じていたが」
「失礼ですね。私は国中を飛び回る身、この両翼だって、しっかり現役ですよ」
背中の翼を動かせば、輝く羽根がはらりと舞う。この身は
「……相も変わらず、目にうるさいやつだ」
「辛気臭い真っ黒男に言われたくはないです」
「それで? 俺がじきじきに出向いたというのに、下働き身一つで出迎えとは。泰青国は大層豊かな国と聞いたのだが、実情はこんなものか」
「おあいにくと、もてなしの相手は選んでおりますの。貴方のような無作法者に、かける真心なんてございませんわ。むしろ、私が来ただけ、感謝してほしいものですね」
「よくも言う。
「春で結構。頭の中まで鱗でできた御人に比べれば、幾分ましというものでしょう」
薄ら笑いを浮かべてはみるものの、背の冷や汗は止まらない。
中ノ原の五大国のうち、東の
腹をくくって
(気が合うというか、なんというか……)
結局、行きつく結論は同じだったようだ。結局、兵の多寡にたいした意味はない。神獣の相手は、神獣にしかできないのだから。
そう、知っているからこそ、
そして、もうひとつ知っていることがある――――歳華では、辰星に勝てないと。
「さて、覚悟はできたか、鴉」
「そちらこそ。しいっかり歯を食いしばってくださいね、龍」
金の鴉は、気丈に笑う。
神獣にも得意不得意があり、こと戦いにおいて、辰星の上に立つ者はこの中ノ原に存在しない。そんなことは嫌というほど分かっている。
(勝ち筋が皆無なのは重々承知……ならばせめて、最良の負け筋を捕まえねば)
この背には、泰青国のすべてが乗っている。その覚悟とともに、高らかに口にする。
「扶桑の
風が起こった。
春の始まり、芽吹きの季節に大地を巡る、
風元は
「これは……」
「絶景でしょう? あなたにお見せするのは、いささか勿体ないかもしれませんが。さあ、ここからが、本番です」
歳華は金の両翼を、大きく広げた。
「我が魂、我が命をここに捧げよう!」
「……待て。歳華、本気か?」
「なにを愚問を。……これ以上の気張りどころなど、あるものですか!」
光る風が大地を覆い、やがて大地そのものが輝き始める。それは一見、ごく普通の――――東から昇る朝陽が夜を終わらせるという、ありふれた光景のように見えた。
(そう。私がもたらすのは、ありふれた平和でいいのです)
「くっ……ぅ……」
その場に跪きそうになるのを、必死に堪える。身体が鉛のように重い。扶桑樹に命を吸われているのだ。しかし、身を削った甲斐あって、辰星の呼び込んだ
これならいける。これなら、勝負になる。
微笑む歳華とは対照的に、辰星の顔には、焦りが浮かんでいた。
「歳華、なにを」
「……見くびりましたね。窮鼠は猫にすら噛みつくのです。その爪、頂戴致しますよ」
高鳴る動悸が、骨を揺らしている。呼吸は不規則で、立っているだけで苦しい。しかも、この苦しみは死ぬまで続くのだ。この戦いの果て、歳華は無惨な塵となる。
けれど、それでもよかった。
この身は所詮、一本の枝に過ぎない。分木が腐れば、新しい太陽がこの地に来る。
だからもう、大丈夫。
「――――泰青国の民よ、さようなら」
彼らのためになにかできるのならば、私は。
「姉様!」
予期せず響いたその声に、歳華の集中が途切れた。
まさか。どうして貴方がここに。混乱のまま振り向けば、青年がひとり、馬に乗って走ってくる。顔立ちはまだあどけないが、黒に赤を合わせた
姓は陽、名は駿で、
歳華を姉と慕ってくれる、泰青国の若き皇帝だ。
(どうして、駿が)
歳華は出立のおり、何人たりとも
「……ほう。蒼帝自らお出ましとは、少しは外交の作法を思い出したか」
辰星のまなざしが、鋭さを増した。
歳華は叫ぶ。
「駄目です、駿! 貴方は遠くへ逃げて! 私がこいつを押さえているあいだに、どうか、少しでも……!」
「――――遠く? おかしなことを言うのですね」
陽駿は馬から降りると、惑いのない足取りで、歳華のもとへ歩いてくる。その腰元に、見覚えのある鞘を見つけて、歳華は戸惑った。
「貴方、それは……どうして」
「どうしてもこうしても、遠くに行くのは、姉様、貴方のほうですよ」
「……え?」
彼はなにを言った。自分はいま、なにを言われた。
呆然とする歳華の眼前で、銀の光が閃いた。鞘から抜き放たれたのは、扶桑の葉の彫り細工が施された、美しいばかりの飾り刀だ。その切っ先が自分に向けられているのを見て、ようやく、事態を悟る。
(――――ああ)
知っている。知っているとも。それは泰の王家に伝わる宝剣で、儀礼用の代物だ。目を惹く美しさこそあれど、敵を切り刻む鋭さなどない。
けれど、いまこの場においては、十全に致命傷をもたらした。
「蒼帝の名をもって告げる。三千年の昔より、泰青国を導き続けた
「や、やめてください、私はまだ、戦えます、戦えるから」
「――――くどい。私の決定に、異を申し立てるつもりですか?」
足元が、がらがらと崩れていくような感覚があった。
息が苦しい。指が震える。
私はただ。貴方たちを、守りたくて。
それだけが、私のすべてで――――それしか、私にはなくて。
「つまり、だ」
辰星の声が、無情に響く。
「泰青国は、この鴉を差し出す決断をしたということで、よいな?」
「無論。そもそも、神獣の一人と貴国との和平、秤にかけるまでもないですが」
「聡明でなにより。同盟国として、心強いな」
「こちらこそ。今後ともどうぞ、よろしくお願い申し上げます」
身体から、力が抜けていく。術は霧散し、命を振り絞り灯した光も、夜闇に呑まれていった。ふたたび雷鳴が響き始めるなか、歳華は叫んだ。
「待ちなさい、辰星! いつ駿を脅したのです! 私はそんなこと、ひとつも……!」
「脅す? 俺は蒼帝と交渉をしただけだ。その女がほしい、寄越さないのならば泰青国を侵攻する、と。それに対する蒼帝の結論がこれだ」
陽駿はうなずいた。
「扶桑枝の一本で、ことが収まるならたやすいことと判断しました。貴方の教えの通り、この国の未来について、私自身が考えた結果ですよ」
「……駿」
雨が頬を濡らしていく。その場に膝をつく歳華を疎むように、駿は背を向けた。
「ここからは人が築いていく時代だ。神獣の加護は、もう要らない」
歳華が、三千年守り続けた国は。
朽ちた枝を
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