5 想像もつかない過去
店を出ると駅前で解散となった。野上は近くに住んでいるらしく、葉沢と菱田は京王井の頭線だった。JR中央総武線で帰るのは根岸と温井だ。
乗る電車も同じだったため、自然と二人並んで座った。金曜の夜にもかかわらず車内は空いていて、どこか寂しさすら感じられる。
電車が動き出したところで、温井がぽつりとつぶやくように言った。
「根岸は恋をしたことがあるか?」
あまりに唐突な発言にびっくりし、根岸は思わず眉間にしわを寄せた。急に何を言い出したのかと思い、半ば冗談のつもりで返す。
「飲んでないのに酔ったんですか?」
「違うよ。僕は今日、恋をしてしまったんだ」
うつむいていた彼が顔を上げ、向かいの窓から見える夜景を見つめる。
「美藤さん、とても素敵な女性だった」
根岸は温井の顔をじっと見つめた。三十男が恥ずかしげもなく恋愛について語るとは思ってもみなかった。
「そうですか」
と、根岸は無難な相槌を返す。
店にいる時、温井はやたらと美藤を見ていた。薄々気づいてはいたものの、やはり彼女に一目惚れしたらしい。
それよりも根岸はさっさと帰宅して、読みかけの推理小説の続きが読みたいのだが、そんなことを知る由もない温井はたずねる。
「恋愛に興味ないのか?」
「今のところはありません」
「ずいぶんはっきりしてるな……でもあんな美人を前にして、何も思わなかったわけじゃないだろう?」
根岸は少々困ってしまったが、正直な思いを返した。
「確かに美藤さんは美人でした。ですが、どこか変わった人だとも思いました」
温井も少しは同じ感想を抱いたのだろう、途端に口を閉ざしてしまった。
「ウミガメのスープはおもしろかったですし、紅茶に対するこだわりもすごかったです。ですが、ああした女性と付き合うのは苦労するかと」
「その言い方からして、まったく経験がないってわけじゃなさそうだね」
「まあ、人並みに」
「謙遜するな。根岸、絶対モテるタイプだろ。綺麗な顔してるし、知的だし」
根岸は少し間を置いてから平然と答える。
「ええ、そうですね。否定はしません」
「そこは謙遜するべきだろ。まったくおもしろいやつだな」
温井が呆れ半分に笑ってから大きく息をつく。尻を少し動かして座り直し、落胆したように肩をすくめた。
「僕さ、今年で三十四歳になるんだ。いい加減に結婚したくて悩んでる」
「それで焦っていると?」
「やっぱりそう見えるか? 自分でも困ってるんだけど、惚れっぽくてね。好みの女性を見るとすぐに惚れちゃうんだ」
「なるほど」
「よくないよな。これじゃあ、誰とも結婚なんてできそうにないよ」
温井は根岸より五センチほど背が高く、体格もいい。顔もけっして不細工ではないのだが、いい出会いに恵まれなかったようだ。
根岸は生活安全課で地域住民の相談に乗っていた時のことを思い出す。彼の話を引き出すべく、できるだけ穏やかにたずねた。
「上司の娘さんを紹介されたりしませんでしたか?」
「一度だけあった。けど、その娘さんにはひそかに、学生時代から付き合ってる彼氏がいて……」
その時のことを思い出したのだろう。温井がため息をつき、根岸も苦い気持ちになる。紹介した上司も家庭内で一悶着あっただろうと想像できた。
「他に見合い話などは?」
「婚活アプリで何人かと会ったよ。でも、うまくいかなかったな。やっぱり前科があるのがいけないのかもしれない」
「前科?」
聞き捨てならない単語に反応し、根岸は目を丸くして温井を見つめる。
温井も横目に視線を向けてから、自嘲気味に告白した。
「中学生の時、不良だったんだ。悪いやつらとつるんで、万引きや引ったくりをやってた」
今現在の穏やかな彼からは想像もつかない過去だった。
「けっこう派手にやってたせいか、すぐ警察に捕まってさ。保護観察処分になったんだ」
「ですが、今は更生して警察官になったでしょう? それでもうまくいかないんですか?」
「自分でも更生したつもりだよ。三年前には刑事になったし、ずっと真面目に生きてきた。でも、昔のことだって流してくれる人がいなかった」
よほど女運が悪いらしい。そうしている間に時間は過ぎ、否が応でも歳を重ねていく。温井が焦るのは当然だった。
根岸はどうしたものかと考えたが、車内アナウンスが中野への到着を知らせていた。
温井が気づいて「それじゃ、僕はここで。お疲れさま」と立ち上がる。
根岸は「お疲れさまでした」と返したが、その声はあまりにも小さかった。温井の過去に少なからず動揺している自分がいた。
電車を降りていく温井の背中が寂しそうに見えた。
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