4 想像もつかない過去

「そういうわけなので、ここからは僕が引き継ぎましょう」

 守本が言い、根岸たちの視線は彼へと向いた。代表するように菱田がまず質問をした。

「古書店は別の人がやっていたお店なんですよね。以前の店主は病気でしたか?」

「はい」

「ということは、病気になったことをきっかけに店をやめることになり、おいであるあなたに継がせたんですね」

 守本はいかにも人の好さそうな笑みを浮かべた。

「正解です。叔父には子どもがいなかったので、可愛がってもらっていた僕に白羽の矢が立ったんですよ。今ではこの生活も悪くないと思っています」

「なるほど」

 背景事情が明確になり、菱田は納得したように何度かうなずく。

 美藤が先ほど「お客さんの物語」と言ったが、それはまさに人生の一部を切り取ってウミガメのスープの問題に仕立てたものだからだ。

「ちなみに駅方向へ少し戻ったところに店があるので、機会があればおいでください。古書店なのでサービスはできませんが」

 守本が自嘲気味にくすりと笑い、興味が惹かれた根岸はたずねる。

「主にどういったジャンルの本を扱ってるんですか?」

「一般文芸の文庫本から漫画に、少しだけですが洋書もありますよ」

「文庫となると、推理小説なんかも?」

「ええ、あります。もしかして推理小説、お好きなんですか?」

 たずね返されて根岸ははっとしたが、否定するには苦しい状況だ。しかたなく肯定した。

「読書が趣味なものでして」

 守本が嬉しそうに目を輝かせ、にこりと笑った。

「あなたとは気が合いそうですね。ぜひゆっくりと話がしたいところです」

 根岸は気恥ずかしさを覚えたが、同時に仲間たちの視線を感じていた。葉沢が小声で先日の狛犬騒動について話しており「推理小説が好きだから推理が得意なのかもしれません」などと勝手に言いふらしている。

 かと言って素っ気ない態度をとることもできず、根岸は気にしないことにして守本へ笑みを返した。

「ええ、こちらこそ。またお会いできた時にでも、ゆっくり話しましょう」


 店を出ると駅前で解散となった。野上は近くに住んでいるらしく、葉沢と菱田は京王井の頭線だった。JRで帰るのは根岸と温井だ。

 乗る電車も同じだったため、自然と二人並んで座った。平日の深夜であるせいか、車内は空いていてどこか寂しさすら感じられる。

 一駅過ぎたところで、温井がぽつりとつぶやくように言った。

「根岸、君は恋をしたことがあるか?」

 あまりに唐突な発言にびっくりし、根岸は思わず眉間にしわを寄せた。温井が急に何を言い出したのかと思い、半ば冗談のつもりで返す。

「飲んでないのに酔ったんですか?」

「違うよ。僕は今日、恋をしてしまったんだ」

 うつむいていた彼が顔を上げ、向かいの窓に映る自分自身を見つめる。

「美藤さん、とても素敵な女性だった」

 根岸は温井の顔をじっと見つめた。温井が恥ずかしげもなく恋愛について語るとは思ってもみなかった。

「……そうですか」

 店にいる時、温井はやたらと美藤を見ていた。もしかしたらと思ってはいたものの、やはり彼女に一目惚れしたらしい。

 それよりも根岸はさっさと帰宅して、読みかけの推理小説の続きが読みたいのだが、そんなことを知るよしもない温井はたずねる。

「君は恋愛に興味がないのか?」

「今のところはありません」

「ずいぶんはっきりしてるな……でもあんな美人を前にして、何も思わなかったわけではないだろう?」

 根岸は少々困ってしまったが、正直な思いを返した。

「確かに美藤さんは美人でした。ですが、どこか変わった人だとも思いました」

 温井も少しは同じ感想を抱いたのだろう、途端に口を閉ざしてしまった。

「ウミガメのスープはおもしろかったですし、紅茶に対するこだわりもすごかったです。ですが、ああした女性と付き合うのは苦労するかと」

「その言い方からして、まったく経験がないってわけじゃなさそうだな」

「まあ、人並みに」

「謙遜するな。根岸、絶対モテるタイプだろ。綺麗な顔してるし、知的だし」

 根岸は少し間を置いてから平然と答える。

「ええ、そうですね。否定はしません」

「しないのかよ、そこは謙遜するべきだろ。まったくおもしろいやつだな」

 温井が呆れ半分に笑ってから大きく息をつく。尻を少し動かして座り直し、落胆したように肩をすくめた。

「僕さ、次の誕生日で三十四歳になるんだ。いい加減に結婚したくて悩んでる」

「それで焦っていると?」

「やっぱりそう見えるか? 自分でも困ってるんだけど、惚れっぽくてな。好みの女性を見るとすぐに惚れちゃうんだ」

「なるほど」

「よくないよな。これじゃあ、誰とも結婚なんてできそうにないよ」

 温井は根岸より背が高く、体格もいい。顔もけっして不細工ではないのだが、いい出会いに恵まれなかったようだ。

 生活安全課で地域住民の相談に乗っていた時のことを思い出す。根岸は彼に共感を示そうと苦笑いを浮かべ、できるだけ優しい声でたずねた。

「よくしてくれる上司の娘さんを紹介されたりしませんでしたか?」

「一度だけあった。けど、その娘さんには学生時代から付き合ってる彼氏がいて……」

 その時のことを思い出したのだろう。温井がため息をつき、根岸も苦い気持ちになる。紹介した上司も家庭内で一悶着ひともんちゃくあっただろうと想像できた。

「他に見合い話などは?」

「見合いはないけど、婚活アプリで何人かと会った。でも、うまく進まなかったな。やっぱり前科があるのがいけないのかもしれない」

「前科?」

 聞き捨てならない単語に反応し、根岸は目を丸くして温井を見つめる。

 温井も横目に視線を向けてから告白した。

「中学生の時、不良だったんだ。悪いやつらとつるんで、万引きや引ったくりをやってた」

 今現在の穏やかな彼からは想像もつかない過去だった。

「けっこう派手にやってたせいか、すぐ警察に捕まってさ。保護観察処分になったんだ」

「ですが、今は更生して警察官になったでしょう? それでもうまくいかないんですか?」

「自分でも更生したつもりだよ。三年前には刑事になったし、ずっと真面目に生きてきた。でも、昔のことだって流してくれる人がいなかった」

 よほど女運が悪いらしい。そうしている間に時間は過ぎ、否が応でも歳を重ねていく。温井が焦るのは当然だった。

 根岸はどうしたものかと考えたが、車内アナウンスが中野への到着を知らせていた。

 温井が気づいて立ち上がり「それじゃ、僕はここで。お疲れさま」と、声をかけてから電車を降りていった。

 根岸は「お疲れさまでした」と返したが、その声はあまりにも小さかった。温井の過去に少なからず動揺していた。

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