3 断ち切る

 部下たちがケルベロスと激しい戦闘を繰り広げる最中、野上は根岸栄と篠原雄介の元へ歩み寄っていた。

「さて、大人しく逮捕されてくれないか?」

 音もなく死角から現れた野上を見て、根岸栄はかすかにうろたえた。

「ふざけんなよ、おっさん。まだ勝負はついてないぜ」

 と、下ろしたままの片手に気を集める。

 野上は気づきながらも動じなかった。激した人間ほど的を外す。

「壊せ!」

 間近で放たれた魔法を軽々と避け、野上は栄ではなく篠原へ向かって駆け出した。

 びくっと肩を震わせた篠原の頭をすれ違いざまに片手でつかむ。

「おねんねしてな」

 避けきれず後ろに尻もちをついた篠原は、目を見開いたまま呆然としていた。

「なっ……どうしたんだよ、雄介! おい、雄介!?」

 異常に気づいた栄が相棒の肩を揺さぶるが、篠原は青白い顔でどこか遠くを見ているばかりだ。

 一方、彼らの後方へ回った野上は暁月善と合流する。

「まだ上にいるだろ。雑魚ざこの片付け、頼んでもいいか?」

「できればやりたくないけど、襲ってくる幻獣は殺処分が原則だもんね。任せて」

 暁月はため息まじりに言いながらも、すぐに頭上へ飛び上がった。

 篠原が立ち上がれなくなったことを察し、栄はあらためて野上をにらむ。

「おい、俺の相棒に何してくれてんだよ」

「トラウマを呼び起こしただけだが?」

 野上が冷淡に返し、栄はにわかに息を荒くした。


 ケルベロスの頭部は一つだけになっていた。バランスが取れなくなったようでふらふらとしている。

「あと少しです、根岸さん!」

 葉沢の声が聞こえるが、根岸の精神は限界を迎えようとしていた。

 二つの首、四つの目が根岸に憎悪の視線を向けている。見ないようにしようと意識しても、一度感じてしまったものをなかったことにはできない。

 とうとう膝をついてしまうと、葉沢がすぐに駆け寄って来た。

「大丈夫ですか、根岸さん!」

 根岸は力なく顔を上げ、弱々しい声で答えた。

「っ……すまない、葉沢。もうダメそうだ」

 罪悪感が根岸の目に涙を浮かばせる。覚悟を決めてきたはずなのに、結局、心が折れてしまう。自分の弱さが憎かった。

 温井は「くそっ」と声を上げて、ケルベロスの前へ回り込んだ。

「根岸がやらないなら僕がやる!」

 両手を突き出し、気を集める。

 すっかり迫力を失ったケルベロスは、最後の力を振り絞るように咆哮した。痛切な響きを伴った声が夜を震わせる。

 温井が魔法を放とうとした瞬間だった。ケルベロスの体が大きく揺れて倒れ込んだ。

「え……?」

 呆気にとられる温井の前方に、根岸栄の姿があった。冷え切った微笑みを浮かべながら言葉を吐き出す。

「もっと食い散らかしてくれるかと思ったが、とんだ期待外れだったな」

 彼は両手を前に突き出していた。強風がその手の平を中心に巻き起こる。

「やっぱり自分でやった方が早い」

 栄の少し後ろに野上が倒れていた。気づいた菱田は駆け出したが、栄の方が早かった。

ぜろ」

 いくつもの魔法弾が散弾銃のようになって菱田を襲う。

「菱田!」

 はっとして足を止めた菱田を、とっさに温井がかばい、魔法弾の多くを引き受けた。

「温井さん!?」

 両腕に脚や腹部、頬からも血を流しながら温井は言う。

「かまうな。早く野上さんのところへ!」

「でも……!」

「いいから行け!」

 菱田は躊躇を振り切って再び駆け出した。

 一部始終を見ていた根岸は、無意識のうちに立ち上がっていた。他の生命を傷つけるのは怖い。だが、仲間の生命が傷つけられるのはもっと怖い。

「大丈夫ですか?」

 心配そうに葉沢が声をかけ、根岸はうなずいた。

「ああ」

 栄と温井がにらみ合う。視界の端では、菱田が野上の体に手をかざしている。

 根岸は両手を前へ伸ばした。焦点を栄に固定すると、脳裏に野上の声がよみがえった。

「目には目を、歯には歯を。悪には悪を、だ」

 見ていられずに葉沢が加勢し、栄の魔法から温井を守る。

 攻撃を受けてもなお立ち上がり応戦する温井と、可能な限り防御壁を広げる葉沢。栄は相手が二人になっても、変わらず容赦のない攻撃を続けている。

「悪には、悪を……」

 ぽつりとつぶやき、根岸は容赦なく攻撃を続ける栄を見据える。

 幼い頃は兄が好きだった。もっとも身近な憧れの存在として、純粋に尊敬していた。しかし、兄は何の罪もない鳩を殺した。中学の同級生を殺した。見知らぬ男性に重傷を負わせた。そして家庭が崩壊し、両親は離婚した。

 兄を悪だと初めて認識した瞬間、心に芽生えたのは言いしれぬ恐怖だった。それがどうして魔法を憎むことになったのかと言えば、兄を信じたかったからだ。自分の好きな兄の姿をゆがめたくなくて、すべてを魔法のせいにしたのだ。

 しかし、違った。悪いのは兄だった。初めて今、その現実を直視できた。

「これ以上、俺の仲間を傷つけるな!」

 のどが張り裂けんばかりに大声を上げ、根岸は栄の注意を引く。

 栄の顔がこちらに向くなり、根岸は叫んだ。

「断ち切れ!」

 これまで秘めていた兄への未練を、魔法を嫌悪していた自分自身を、吹き荒れる暴風に託して断ち切った。

 狭い結界内に竜巻が起き、根岸ですら目を開けていられなくなる。

 やがて風がかき消え、夜の静寂が戻ってきた。閉じていたまぶたを開けると、力なく地面に伏している栄の姿が見えた。仲間たちもまた伏せており、立っているのは根岸だけだった。

「やっぱり根岸さんは強いなぁ、思ってたよりすごくてびっくりしちゃった。危うく俺も巻き込まれるかと思ったよ」

 そう言いながら、近くのビルの屋上から暁月善が下りてくる。

「立ってるの、辛いんじゃない?」

 暁月の言葉には心配が込められていたが、同時に軽い挑発のような響きもあった。そうした話し方に翻弄ほんろうされたのだと、根岸は今はっきりと理解した。

 一方で根岸は、自分の体が限界に近いことを自覚していた。全力で魔法を使い、心も体も疲弊ひへいしている。足元はふらつき、体の重さが増したように感じる。だが、まだ倒れるわけにはいかない。

 根岸はミルクティーブラウンの頭をちらりと見やり、左右へ首を振った。

「まだ終わってない」

 重たい体を引きずるようにして、ゆっくりと一歩一歩、栄へと歩み寄る。

 気づいた栄が目を開き、うつろな眼差しで弟を見上げた。戦意をすっかり喪失し、起き上がる気力すら残っていない顔だ。

 根岸は地面へ膝をつくと、少しずれた眼鏡を片手で直し、あくまでもクールに告げた。

「公務執行妨害の罪で、現行犯逮捕します」

 栄がわずかに口角を上げて微笑んだが、根岸は少しも気に留めなかった。栄が何を考えていようとも、微塵みじんも興味がわかなかった。

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