4 今度こそ

 根岸は世界が一瞬にして遠ざかるような感覚を覚えた。まるで自分と世界との間に壁ができてしまったみたいだ。

 凶暴な送り犬を前に戦う三人の姿が、やけに離れて見える。自分自身もまた小さくなるように思われて、根岸は妙に俯瞰した気持ちになった。自分はいったい、何をしているのだろう。

「根岸さん……」

 葉沢は呆然としている根岸をしばらく見つめていたが、そっと両腕を上げた。幼い子どもへするように、根岸を優しく抱きしめる。

「怖いことはさっさと終わらせましょう」

 はっとして根岸は元の世界へ引き戻される。耳元に葉沢の声がした。

「実を言うと、もう自分も疲れました。でも根岸さんじゃないと、あの送り犬は倒せません」

「……」

「大丈夫、殺してしまっても大丈夫です。だって死んだら終わりじゃないんですよ。その先にも世界があるんです。だから怖がらないで、自分を責めすぎないで」

 死後の世界など根岸は信じていなかった。死んだらそこで終わりだ。失われた命は二度と戻らない。

 しかし、そうではないのかもしれない。本当は葉沢の言うことが正しいのかもしれない。

「根岸さん、自分が一緒にいます。どうか、あの三人を早く助けてください」

 ぎゅっと葉沢の背へ腕を回し、深く息を吐く。――そうだ、早く温井さんを助けなきゃ。野上さんと菱田も、助けなくちゃ。

「分かった……」

 震える声で返し、根岸はゆっくりと顔を上げた。葉沢は疲れを隠すことなく微笑んだ。

 再び覚悟を決めて根岸は立ち上がる。前へ突き出した両腕を、横から葉沢が支えてくれた。

「今度こそです、根岸さん」

 重ねられた葉沢の手が根岸の不安をやわらげるようだった。根岸は手の平に気を集め始めた。

 送り犬は三人とにらみ合いながら、ちらちらとこちらの動きをうかがっている。

 温井も野上も息が切れて肩を上下させており、菱田も疲労が限界に近いようで足元がおぼつかない。

「今度こそ……」

 根岸は集めた気をじっくりとこねて形を作る。今度はナイフではなく板状にし、タイミングを見て強く放った。

「離れろ!」

 送り犬はとっさに飛び上がるが避けきれず、勢いよくフェンスへ体を打ちつけた。金網が耳障りな音を立てる。

 ずるりと地面へ落ちた送り犬だが、まだ戦意を喪失してはいなかった。よろけながらも立ち上がり、根岸をにらんできた。

 もう一発、魔法を打ち込むしかなさそうだ。根岸が奥歯を噛んだ時、どこからか声がした。

「これでおしまいね」

 送り犬に向かって一本の魔法が飛んでいく。額に魔法を受けた送り犬は倒れ込み、その場で意識を失った。

 呆然とする根岸の横を、ミルクティーブラウンの頭がすれ違う。暁月善だった。

「送り犬とジャッカロープの死体はこっちで回収するよ。杉田さんと交換ってことで」

 いつの間にか公園の脇にシルバーの軽トラックが止まっていた。協会の職員だろうか、人影が荷台から気を失っている杉田を引きずり下ろして歩道に置いた。

 その顔はよく見えず、一言も発しないままトラックの運転席へ戻ってしまう。

「お、おい、待てよ」

 野上が慌てて声をかけるが、暁月はかまわずに送り犬の足を持って引きずり、もう片方の手でジャッカロープの角をつかむ。

「お疲れ、みんなちゃんと休んでね」

 淡々と言いながら公園を出ていくと、幻獣たちを無造作にトラックの荷台へ放り投げた。

 呆然とする魔法捜査一課のメンバーを置いて、暁月は車へ乗り込んだ。じきにエンジンをかける音がし、何事もなかったように遠ざかって見えなくなった。

 まるで何が起きているのか分からなかった。

 近所の住民が通報したのだろう、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。


 杉田大翔ひろと、二十四歳。日本幻気術協会の職員でありながら、危険な幻獣を所持していた男は素直に逮捕された。

 翌日から取り調べを開始することになり、魔法捜査一課のメンバーはそれぞれ一度帰宅した。

 戦闘による疲労をシャワーでさっぱりと洗い流し、根岸はスペアの眼鏡をかけたところでようやく気分が落ち着いた。軽い空腹を覚えて冷蔵庫を開け、自然とため息を漏らす。

 左手を伸ばし、作り置きしてある煮卵の入ったタッパーを取り出す。普段と何ら変わらない動きだったが、そのありがたみが唐突に胸を打った。

 冷蔵庫を閉めてタッパーをキッチンの隅にそっと置く。

「……本当にすごいな」

 根岸は小さくつぶやきながら、菱田によって戻された左腕を右の手でさすった。心の奥で、もう二度と失うことがないようにしようと思った。

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