3 罪悪感
「よかった、間に合って」
ふとそんな声がして目を開けると、左腕の激痛が嘘のように消えていた。それだけではなく、幻獣に食われたはずの左腕が戻っているではないか!
はっとして体を起こすと、すぐそばに菱田が片膝をついていた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
菱田が時間に干渉して根岸の左腕を取り戻してくれたのだ。そうと分かってはいても、信じられない思いで頭がいっぱいになってしまう。
冷静な口調で菱田は言った。
「幻獣の相手は野上さんたちがしてくれています。でも怪我をしているかもしれない、すぐに行かないと」
はっとして根岸は即答した。
「ああ、行ってくれ」
菱田が公園の方向へと走り出し、根岸はゆっくりと立ち上がる。
癖でこめかみ付近に手をやり、眼鏡がないことに気づいた。地面を見下ろすが暗くて分からない。探すのは手間だ。だが、特段視力が悪いわけではない。家に帰ればスペアもある。
左手に力を入れて握ったり開いたりしてみると、何の違和感もなかった。時間への干渉とは、すなわち物質の再構成でもあるのだと実感する。
魔法は何でもできるわけではないが、力が強ければこうしたことは可能らしい。そう思うと少し苦笑が漏れた。
深呼吸をして意識を整え、根岸は高鳴る鼓動を抑えながら頭を働かせた。スーツはすっかり裂けて汚れてしまったが、体の方は特に痛まない。急いで仲間たちの加勢をしに行くべきだ。
そう考えた次の瞬間、先ほどの恐怖がよみがえって膝が震えた。
「こらえろ、怖気づいてる場合じゃない……!」
自らを鼓舞し、足を踏み出す。徐々にスピードを上げていき、駆け足になった。
植え込みの陰で二人の男が座り込んでいるのが見えた。
近づいていくと、菱田が野上の右大腿部に手をかざしていた。スラックスが破れて血で汚れている。野上は痛みに顔をしかめながら、ぎゅっと口を閉じていた。
見ると、小さな公園の中で温井が奮闘していた。次々に気を固めた魔法弾を放ち、送り犬を牽制している。時折変化球を交えて攻撃するも、送り犬は余裕のある動きで避けるばかりだ。温井の表情には焦りと疲労が見えた。
一方、葉沢は送り犬より一回り小さい幻獣に狙われていた。必死に防御壁を張って攻撃に耐えているが、彼もまた苦しそうにしている。
思わず立ち尽くす根岸へ、野上が横目に視線をやりながら言った。
「幻獣は一匹じゃなかった。菱田が模倣犯だと言った二件は、あのジャッカロープによるものだったんだ」
どうやら犯人は二匹の幻獣を使い分けていたらしい。
根岸は公園内へ足を踏み入れた。あきずに何度も葉沢へ突進していくジャッカロープを見据える。うさぎに鹿の角が生えたような姿をしているが、一般的なうさぎの三倍から四倍の大きさがある。
葉沢の防御壁はぶつかるたびにバチバチと光る。何度も攻撃を受けているせいだろう、所々がひび割れて消えかかっていた。
根岸は息を大きく吸って両手を前へ突き出した。両足を肩幅程度に開き、震えないように踏ん張る。一刻も早く葉沢を助けたい一心で、根岸は手の平の先に気を集める。
周囲にふわりと風が巻き起こる。二十年近く使っていなかったせいで力加減が分からず、思ったよりも多くの気を集めてしまった。重いと感じた瞬間、根岸はジャッカロープへ向けてそれを投げた。
「当たれ!」
ナイフのようにとがった魔法を避けようとして、ジャッカロープが飛び上がる。腹部から血があふれて飛沫を上げ、地面へ落ちる。痛みに悶えて手足をばたつかせるジャッカロープだったが、じきに力を失って動きを止めた。
「うわあ、根岸さん! 助かりました!」
葉沢が興奮状態で駆け寄ってきたが、根岸はかまわずに送り犬をにらんだ。
温井も気づいて送り犬から距離を取る。
突き出したままの両手を幻獣へ向け、根岸が再び意識を集中させようとした時だった。視界の端にジャッカロープの頭が見えた。
気づいてしまった途端、膝ががくがくと震えだした。腕を伸ばしていられなくなり、集めた気が瞬時に散っていく。根岸はその場に片膝をついた。
「どうしたんですか、根岸さん⁉」
葉沢に強く肩をゆすられ、根岸は片手でまぶたを覆う。
「嫌だ、殺してしまう……俺は誰も、何も傷つけたくないのに……」
ジャッカロープの目が恨めしそうに根岸を見つめていた。
魔法で命を奪ってしまった事実に、かつてのトラウマが呼び起こされる。兄の笑う声が聞こえ、涙で前が見えなくなる。
「やりすぎた、殺すつもりはなかった……」
ジャッカロープの命が罪悪感に形を変えて、重たく背中にのしかかる。全身が恐怖に包まれて、根岸は動けなくなっていた。
野上が立ち上がり、温井の助けに入った。しかし送り犬は俊敏で、二人の攻撃をいとも簡単に避けていく。
菱田は根岸の前へ立つと、震えて涙を流す彼を冷たく見下ろした。
「何してるんすか、根岸さん」
「……」
「助けに来たんでしょ? 覚悟してここまで来てくれたんでしょ? なのに何で怖気づいてるんですか⁉」
「っ……」
反射的に根岸が両耳をふさぐと、菱田は素早く左右の手をつかんで外した。びくっとする根岸へ菱田は真剣に言う。
「あれを倒せるのはあんたしかいないんすよ! 温井さんも野上さんも、とっくに息切れしてるんです!」
根岸は言い返せずに呆然と涙するばかりだった。
いつも笑っている菱田からは想像もできない、切羽詰まった表情が根岸を責める。
「状況見てくださいよ! 何を怖がってるんすか⁉」
菱田も限界が近いのだと、その時気づいた。彼の目に濃い疲労の色が見えた。
直後、温井の悲鳴が響いた。バランスを崩して倒れた隙に、送り犬が右脚へ噛みついたのだ。
「温井さんっ!」
菱田が急いで駆けていく。――今日だけで彼は何回、時間に干渉したのだろう。強い魔法は体力の消耗も激しいはずだ。
すぐに野上が送り犬の体をつかんで温井から引きはがすが、抑えきれずに振り回されてしまう。体が宙へ浮き、軽々と地面へ放り投げられる。
倒れた温井のそばに膝をつき、菱田がその脚部に手を当てる。気が魔力と練り合わされてちりちりと光る。
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