2 四日目の夜

 野上はスマートフォンを操作する手を止めて新浦を見る。

「娘と息子がいるが、こんなことに使わせるわけないだろ」

「もちろんです。ちゃんとモザイクなりで顔は隠します。あ、奥様の写真もあるといいですね。家族構成が分かるような写真だと、特定しやすくなりますから」

「……いや、やっぱダメだ。これから用意する」

「その方がダメです。すでにある写真を使う方が自然ですし、もしわざとらしいと思われたら、その時点で失敗ですよ。犯人、おびき出せなくなってもいいんですか?」

 意外にも強気に返す新浦に圧され、野上はしぶしぶながら「分かった」と返す。しばらく悩んだ後で一枚の画像を表示した。

「これでどうだ?」

 新浦へ見せた画像を、根岸たちもさりげなく横からのぞき見る。背景に満開の桜の木が並んでおり、花見の時の写真だと分かる。三十代半ばと思しき優しそうな女性と、彼女によく似た十歳ほどの少女、そして元気いっぱいの笑顔を浮かべた五歳くらいの少年が写っていた。

「あれ、奥さん若くありません?」

 温井が真っ先に反応し、野上は少し不機嫌そうに答える。

「五つ下だ」

「野上さん、今何歳でしたっけ?」

 と、たずねたのは菱田だ。

「四十」

「ということは、三十五歳ですか」

 根岸がぽつりとつぶやくように言い、温井が叫んだ。

「まさか、僕より二歳上? いったい何年前に結婚したんですか⁉」

「十二年前だな。ちなみにこの写真は去年、井の頭公園で撮ったものだ」

「うらやましい! 僕も結婚したい! 美人な奥さんと子どもを連れてお花見したいー!」

 その場で頭を抱えて悶々とし始めた温井に、半ばおろおろとしながら葉沢が声をかける。

「落ち着いてください、温井さん。そのうちにいい出会いがありますよ」

「そのうちっていつだよ⁉」

「えーと、それは、その……」

 騒々しい彼らを置いて、新浦が野上のスマートフォンに手を伸ばす。

「では、こちらの画像をいただきますね。ちょっと待っててください」

 と、デスクに戻ってパソコンを操作し始める。

 根岸がふうとため息をつくと、何故か菱田が問いかけてきた。

「根岸さんは結婚、しないんですか?」

「ああ、別に興味がないからな。菱田は?」

「仕事が落ち着いたらする予定です。婚約者がいますので」

 にこりと笑う菱田を見て、温井が絶望するかのように言葉をなくして固まった。

 さすがに哀れだと思ったらしく、野上は温井の肩へぽんと片手を置いて慰めるのだった。


 数日後、上層部からの許可が得られて、魔法捜査一課はさっそくおとり捜査を開始した。

 まずは新浦が二つのアカウントを使い、自然に見えるように数日かけてネットトラブルを工作した。その翌日、片方のアカウントから「アゲント」に接触を図った。依頼が受け付けられた旨の返答が届いたのは、その日の夕方だった。

 次の日から根岸たちは行動を開始した。三日目までは何事もないだろうが、リハーサルとして野上の帰路を見張り始めた。何事もなく野上が帰宅して解散する日が続いた。

 そろそろ幻獣が現れてもおかしくないと、気を引き締めた四日目の夜。根岸は所定の位置に立ち、野上がやってくるのを待っていた。

 帰宅ラッシュが過ぎて、辺りは人気がなくなりつつあった。大通りを行き交う車も落ち着き始め、住宅街の明かりが一つ、また一つと増える。

 横断歩道を渡ってきた野上が、いつもと変わらない足取りで暗い路地へと入っていった。

 すかさず根岸は小型無線を手にし、状況を報告する。

「こちらA地点、マルタイ通過しました」

 即座に「了解」と声が返ってくる。

 根岸は周辺に目を走らせ、野上の後をついていく人物がいないか確かめた。今夜も幻獣は現れそうにない。

 落胆と安堵に胸を撫で下ろした時だった。

「おや、根岸さんじゃありませんか」

 どこかで聞き覚えのある声がして振り向くと、若い男が目の前に立っていた。あまり背は高くなく、特徴らしいものもない普通の青年だ。

「あ、あなたは……」

「協会職員の杉田です」

 にこりと微笑する青年に、根岸は思わずしどろもどろになってしまった。まだ仕事中なのだ。話しかけられては困る場面だった。しかし、杉田がそんな事情を知るはずもない。

「こんなところでお会いするなんて偶然ですね」

「ええ、そうですね」

 当たり障りのない返答でさっさと会話を切り上げようと思う根岸だが、杉田は笑顔のままでたずねてくる。

「お住まいはこの近くでしたっけ?」

「いや、そうではないのですが、その……」

 はっきり仕事中だと言うべきだろうか。そんな逡巡の間に、杉田の後方で何かが動いた。

 根岸が目を凝らすと、四足歩行の黒い影が路地の奥へ走っていくのが見えた。

 とっさに駆け出しながら根岸は無線機へ叫ぶ。

「A地点、ホシと思われるものが路地に――」

 後ろからぐいと腕をつかまれて足が止まる。振り返ると、車のライトを逆光に受けながら杉田が笑っていた。

「ダメですよ、根岸さん。あなたがいると邪魔なんです」

 いったいどこに隠れていたのか、杉田の脇にいつの間にか灰色の送り犬が立っていた。何が起こっているのか、理解する間もなかった。

「食べなさい」

 命令された送り犬が歯茎をむき出しにして襲いかかってくる。距離が近すぎて逃げることが出来ない。

 かろうじて体をひねって避けると、その勢いで杉田の腕を振り切って全速力で駆け出した。一目散に路地へ入ったが、激しく動悸が鳴っているせいで頭がうまく働かない。

 とにかく仲間の元へ――と、前方に見えてくるはずの公園を目指す。だが、すぐに追いつかれてしまった。

 後ろから勢いよく飛びつかれ、根岸はバランスを崩して倒れ込む。とっさに体の向きを変えて足で蹴り上げたが、送り犬はびくともしないどころか覆いかぶさってきた。

「くっ……」

 脳裏に魔法の二文字が浮かび、根岸は左手を幻獣へ向かって伸ばした。

 すかさず口を開けた送り犬が正面から左腕に噛みつく。鋭い牙が圧倒的な力で骨をくだき、容赦なく前腕部を噛み切った。

「うあっ、あぁ……!」

 激痛が走り、根岸は悶えた。送り犬の顎の中で根岸の左腕が咀嚼されている。

 普段の冷静さはすでにかき消えて、逃げ出そうという考えすら浮かばない。根岸はただ血を流す左腕を抱え、悲痛な叫び声を上げるしかなかった。

 地獄のような痛みの中、意識が徐々に遠のいていく。犬が再び口を開け、根岸は両目をぎゅっと閉ざす。

 ――初めて死を覚悟した。

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