4 普通の人
外はすっかり暗くなっていた。駅へと続く道を、なんとなく重たい足取りで進む。まっすぐに帰宅しようと思ったものの、気分がそわそわとしてしまって気が向かない。
どこかの店で夕食にしようと考えて、ふと「ウミガメの紅茶」が脳裏をよぎった。あそこの紅茶を飲めば、気分が落ち着くかもしれない。
電車で吉祥寺まで行き、先日歩いた道を思い出しながら進む。
狭い路地の先に優しい橙色の灯りが見えてきて、根岸は店の引き戸へ手をかけた。
「いらっしゃいませ」
美藤の声に迎えられ、根岸は自然と口角を上げた。彼女の声を聞いただけで不思議と気がゆるむ。
「こんばんは」
にこやかに挨拶をしたところでカウンター席に見慣れた姿を見つけ、つい足が止まってしまった。菱田だった。
彼の方も気づき、にこにこと人なつこい笑みを浮かべて声をかけてくる。
「おや、根岸さんじゃないですか。あなたもウミガメのスープをやりに?」
「いや、俺は紅茶が飲みたくて」
彼の隣へ行かないわけにもいかないと思い、根岸は菱田の左隣へ腰を下ろした。
「ホットのアールグレイをお願いします」
すると美藤が小さく首をかしげた。
「もしかしてお疲れですか? でしたら、ミルクをおつけしましょうか?」
「アールグレイにミルクですか?」
根岸の知らない飲み方だった。美藤は慣れている様子でにこりと微笑む。
「ストレートで飲むよりも癒やされますよ。牛乳がお嫌いでなければおすすめです」
この店に来たのは癒やしを求めてのことだ。根岸はうなずいた。
「では、ミルクもつけてください」
「お食事はいかがですか?」
以前来た時に見たメニューを思い出し、根岸は返した。
「えぇと、明太クリームパスタでお願いします」
「かしこまりました」
美藤がにこりと笑って調理へ取りかかる。
根岸は一つ息をつき、ちらりと菱田へ視線をやった。彼の前には食べかけのスパイスカレーとアイスティーがあった。
「まっすぐここに来たのか?」
怪訝に思って根岸がたずねると菱田はうなずいた。
「ええ、そうですよ。今日の夕食はここと決めていたので」
「そうか。出ていくの早かったもんな」
ぽつりとつぶやいた根岸を、菱田がどこか不思議そうに見つめた。
「どうかしたか?」
と、根岸が返すと菱田はマイペースに食事を進めながら答える。
「いえ、何でもありません。ところで、根岸さんと二人だけで話すの、これが初めてですよね」
「……そうだな」
少々ぎこちない返答になってしまった。気まずいほどではないものの、根岸と菱田の間にはまだ打ち解けていない空気がある。
しかしかまう様子もなく菱田は言った。
「野上さんから聞いたんですけど、オレの親父のこと、知らなかったみたいですね」
今朝の出来事を掘り返されて、根岸は頭を抱えたくなった。せめて顔だけでも隠そうとしてうつむく。
「すまない。知ってはいたんだが、すっかり忘れていたというか……」
「温井さんが言ってましたよ。根岸さん、顔真っ赤にしてぷるぷる震えてたそうじゃないですか。オレも見たかったなぁ」
菱田が愉快そうに笑い、根岸は無言で彼をにらみつける。生意気だと罵ってやろうかと思ったが、穏便に話を変えることにした。
「お前、いつも笑ってるよな」
「ええ、それがどうかしましたか?」
「いや……裏では何を考えているのか、分からないなと思っただけだ」
今朝の事件の被害者について考えていた。
人間には表と裏の顔がある。菱田の内心がどうなっているのかと思い、根岸は少しだけ恐ろしいような気がした。
菱田は何も言わずにスプーンを口へ運ぶ。
「お待たせしました」
注文した明太クリームパスタが目の前に置かれた。根岸の腹が小さく鳴り、さっそくフォークを手にしたところで菱田が言った。
「根岸さんって、普通の人ですよね」
「は?」
思わず動きを止めて、根岸は目を丸くしてしまった。
菱田は米粒一つ残さず、綺麗に最後の一口をすくう。
「刑事になりたかったのに魔法捜査一課に配属されて、魔法が嫌いだと言いながら捜査にはすごく真面目で……たぶん、変人になりきれない普通の人なんだろうなって思ってました」
「別に、変人になりたいわけじゃないが……」
しかし否定もできなかった。根岸にはなりたい理想の姿があるが、実際はなりきれずに中途半端なままである。
「お待たせいたしました。ホットのアールグレイです」
美藤がそっとティーカップとミルクポットを置いた。
意識を引き戻された根岸は、動揺を悟られまいとして、ミルクを静かにティーカップへ注ぎ入れた。
何も言わずにティースプーンでゆっくりとかきまぜる。ベルガモットの香りがミルクをまとってやわらかくなっている。
ティースプーンをソーサーへ置いたところで、また菱田が言う。
「普通の人、憧れます」
彼は裏側を見せようとしていた。根岸はそう察しながらも、とっさに彼の意図をはかりかねてしまった。
「俺にか? それとも、一般的な普通の人に対してか?」
「どっちもです。オレ、祖父が純血の魔法使いなんですよ」
今朝に続いて二つ目の、初めて知った衝撃の事実だ。
根岸はびっくりしないように意識して、今度こそ明太クリームパスタへフォークを入れた。口へ運んでみて驚く。噛むたびにほんのりと紅茶の香りがするのだ。新鮮な体験だった。
「暁月家の三男坊だったとかで、名の知れた魔法使いであった菱田家に婿入りしたそうです。魔法使いとしてのプライドから、子どもたちには幼い頃から魔法の訓練をさせていました。当然ながら、孫のオレもです」
幼少期から魔法使いとして魔法の訓練をさせられていたなんて、まるで葉沢とは真逆の人生だ。
そんなことを考えつつ、一度フォークを置いてティーカップを持ち上げる。軽く息を吹きかけてから一口すすり、思わず心が躍った。ミルクの優しい甘さとアールグレイのコクがほどよくまざり合って美味しかった。
食事に集中したい根岸だったが、菱田の話に耳を傾けることも忘れてはいなかった。
「それで?」
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