第4話 表と裏
1 伝説的存在の
翌朝、朝食も済ませないうちに野上から連絡があった。
「墨田区八広五丁目で変死体が発見された。至急、向かってくれ」
新たな事件だ。現場に残留魔力があれば、捜査権はこちらが握ることになる。
根岸は大急ぎで支度を済ませ、部屋を飛び出した。
現場には向島警察署の人間が集まっていた。すでに遺体はブルーシートで隠されており、根岸は先に来ていた野上と合流した。彼は何故か規制線の外にいた。
「おはようございます。もう現場は見ましたか?」
「いや、まだだ。魔法捜査第一課だって言ってるのに、どうも頭が固くてな」
苦々しく野上が見つめるのは、場を取り仕切っている刑事の姿だ。年齢は五十歳前後で上背があり、いかにも刑事畑の人間であると思わせるいかつい顔をしている。
「残留魔力だけでも確認させてもらえれば、あとはこっちのもんなんだが」
正式な警察組織として魔法捜査第一課が新設されても、魔法使いの存在を認めている人はまだ少ない。何も知らない人からすれば信じられるわけがなく、ふざけているのかと疑いもする。邪険にされるのも無理はなかった。
駅の方向から温井がやってくるのが見えた。直後、現場を指揮している刑事が忌々しいとでも言いたげな視線をよこす。根岸と野上はやむを得ず規制線から少し距離を取った。
一部始終を見ていた温井が目を丸くしてたずねる。
「どういう状況ですか?」
「まともに取り合ってもらえなくてな。まだ現場を見せてもらえていないんだ」
「それなら残留魔力は?」
「分からん」
温井は一瞬
「こういう時こそ、魔法の出番では?」
「あのオッサンのトラウマを引きずり出して、弱った隙に了解を得ろって?」
野上は苦笑いを返した。
「悪いが、そういう使い方はしたくない」
彼も警察官だ。一般的なモラルをきっちりと心得ていた。
温井は「そうですか」と引き下がり、規制線の向こうを恨めしげにながめた。
その後、数分もすると菱田と葉沢が到着し、野上は二人にも事情を話した。
菱田は現場で働く刑事たちを見ながら言った。
「ここの管轄は向島署でしたっけ」
「ああ。指揮してるのは吉田っていう刑事だ」
「吉田……ああ、分かりました。ちょっと待っててください」
ネクタイの位置を直し、軽く咳払いをしてのどを整えてから、菱田は規制線を躊躇なく乗り越えた。
そろそろ遺体が運び込まれようとする頃だった。菱田は迷うことなく吉田刑事に近づくと、にっこりと笑いながら親しげに声をかけた。
「おはようございます、吉田さん。その節は父がお世話になりました、菱田
振り返った刑事の顔がにわかに固くなる。
「菱田……?」
「はい。父からよく吉田さんの話を聞いています。立派な刑事になってくれて誇らしい、と言っていましたよ」
吉田刑事が慌てたように口をぱくぱくさせた。菱田はなおも笑顔のまま話を続けている。
様子を見ていた根岸はどうしても気になり、野上へたずねた。
「彼は何をしているんですか?」
「あれ、知らないのか?」
不思議そうに野上がこちらを見ると、少し肩をすくめながら言った。
「あいつの父親、警察学校の学校長まで務めたんだぞ。それ以前からも刑事として優秀で、数々の難事件を解決してきたんだが」
頭の中で情報がつながった途端、顔が火照った。一度ならず耳にしていたはずの名前を、根岸はすっかり失念していたのだ。
「伝説の、菱田刑事の……⁉」
刑事になりたいと願いながら、伝説的存在の息子について今の今まで知らなかった。菱田のことはできる人間だと評価していたものの、まさかこんな形で裏打ちされるとは。
恥ずかしさを全身にじりじりと感じる根岸の隣で、温井が呆れたように言う。
「でもあいつ、ノンキャリだよ。親が有名だからって、特別扱いされるのは好きじゃないんだとさ」
「そうだったんですね」
と、葉沢が関心したように目を輝かせ、野上は説明を加えた。
「ちなみに魔法捜査第一課が設立されたのは、菱田の父親の提案があったからだ。彼が定年退職する数年前から、上層部に働きかけてたんだよ。当然、新設にあたって菱田も深く関わっていた。発足人の一人として頑張ってくれたのさ」
初日の訳知り顔の理由が分かった。設立に関わっていたのだから当然だ。勝手な行動を許されていたのも、伝説の刑事という強力な後ろ盾があってのことだったのだ。
ふと気づけば、菱田の姿はブルーシートの内側へと消えていた。しばらくして戻ってくるなり、彼は仲間たちへいつもどおりの笑顔を見せた。
「残留魔力が確認できました。諸々の作業が済み次第、捜査権をこちらに譲ってくれるそうです」
変死体が発見されたのは今朝の四時半過ぎ。第一発見者は通りがかった新聞配達員の男性だった。
現場は公園の裏手にある住宅街の歩道だった。遺体は仰向けの状態で、顔の下半分が無惨にもなくなっていた。両腕に無数の噛み跡と引っかき傷が見られ、よほど強く抵抗したものと思われる。
また、近くに落ちていた鞄の中身から身元が判明した。被害者は近隣に住む三十代の男性会社員、田中義人だった。一年前に離婚しており、現在は一人で暮らしていた。近所の住民によると帰りはいつも遅く、零時近くになることもあったという。そのため、襲われたのは帰宅途中であったと思われる。
付近は住宅街のため、深夜になると人気がない。今回も目撃者は見つかりそうになかった。
「丸山教授の元へ行って、さらなる幻獣の特定を進めます」
魔法捜査第一課に捜査権が移ると、菱田が初めにそう告げた。
野上は「ああ、任せたぞ」と返して、根岸と葉沢へ顔を向ける。
「周辺の聞き込みは引き続き向島署がやってくれてる。根岸と葉沢は被害者について調べてくれ」
被害者の身元はすでに判明しているため、想定外のトラブルに見舞われない限り、順調に情報を集められるだろう。そう難しいことではない。
「分かりました」
根岸と葉沢は同時にうなずいた。そして根岸はすぐに言う。
「まずは被害者の家だ」
「現場近くのマンションでしたね。行きましょう」
初日の新米らしくおどおどしていた態度から一変して、葉沢はしっかりした返事をするようになっていた。顔つきも少しは刑事らしくなってきたようだ。
根岸は内心で彼の成長を嬉しく思いつつ、さっそく席を立った。
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