第2話 ウミガメの紅茶

1 基礎の応用編

 最初の事件は今年一月に起きた。十日の午前二時過ぎ、東京都板橋区上板橋駅近くの路上で、三十代の男性が倒れているところを発見された。左頭部が食い破られたようにえぐれており、右腕と右足首付近に噛み跡が見られた。形状からして犬に噛まれたような跡だったが、付近に野良犬の情報は一切なかった。街灯のない暗い道であったこともあり、目撃情報は得られず捜査は難航なんこう中である。

 二件目の事件が起きたのはその五日後、今度は新宿区荒木町での出来事だった。未明に曙橋あけぼのばし南の横断歩道上で倒れている二十代男性が発見されたのだ。首から肩にかけて一部がえぐり取られており、左の腕に引っかかれたような傷がいくつもあった。腹部と大腿だいたい部には噛み跡が見られた。こちらも目撃者はおらず、野良犬の情報もない。

 三件目は十日ほど間を置いた二十五日、調布市富士見町の富士見公園近くの歩道で二十代の女性が襲われた。日が暮れ始めた頃で周囲には人気があったが、目撃者によると被害者は突然倒れたように見えたという。異常に気づいた人々が近寄ると、女性は服ごと腹部を噛みちぎられていた。両手に防御創ぼうぎょそうと見られる傷がいくつか見られたが、誰も犯人の姿を見ていなかった。

 初めは個別の事件だと思われていたが、人体を食い破られていることや目撃者がいないことなどから、警察は連続殺人事件として捜査をすることにした。夜間の見回りを強化し、怪しい人物がいないか調べたが、必死の捜査も虚しく被害者は増えていく一方だ。最初の事件から約三ヶ月が経った四月三日の時点で、件数は十七件にまで上っていた。

「これらの事件の共通点は『噛み跡』です。いずれも犬に酷似こくじしており、目撃情報がないことも一致しています。このうち十五件に幻獣が関わっていると思われます」

 連日、事件現場を回って情報を集めていた菱田が報告し、野上はたずねた。

「そのすべてに痕跡があったのか?」

「いえ、痕跡があったのは三週間前からの六件のみです」

 デスクで魔法の参考書を読みながら、根岸は彼らの会話を気にしていた。

「そもそも幻獣の痕跡というのは残留魔力です。時間の経過によって薄れて消えていくものなので、その他についてはまだ根拠がありません」

 根拠がないとはっきり言える胆力がすごい。菱田はよくも悪くもあまり動じることのない男らしい。

 野上は少し顔をしかめて慎重にたずねた。

「それなら除外した二件については?」

「二件とも確かに噛み跡はあるんですが、他と違って打撲痕まであるんです。食い破られている箇所も腕とふくらはぎであり、遺体の状態における残虐性に違いがあります。

 ですが、詳しいことは検視結果を見なければ判断がつかないので、見せてもらえるようにお願いできませんか?」

「分かった、連絡してみよう。十五件の事件についても捜査権をこっちに移すよう、上層部に言っておく。捜査資料も週明けにはそろうはずだ。それまでの間、君たちは根岸と葉沢を見ててやってくれ」

 野上の指示を受け、菱田と温井は顔を見合わせた後、振り返って根岸と葉沢を見た。菱田は穏やかな笑みを浮かべてうなずき、温井も落ち着いた口調で返事をした。

「分かりました」

 野上はさっそく受話器を取って上へかけ合い始め、根岸のそばに温井が寄ってきた。まだ数えるほどしか会話をかわしていないにもかかわらず、温井は親しげに声をかけてきた。

「今は何を学んでるんだ?」

 根岸は手元の参考書を開いたまま机の上に置き、温井にも見えるようにした。

「基礎の応用編です」

「ああ、より多くの気を集めるにはってやつか。僕、得意だよ」

 根岸は何も言わずに温井の顔を見上げる。魔法捜査第一課に配属されてから、毎日顔を合わせるようになった相手だが、どうにも緊張感に欠けている気がしてならない。

「お手本、見せてやろうか?」

 温井が子どもに向けるような優しい顔をし、根岸はため息をつく。

「こんなこと、今さら学ばなくても理解しています」

「でも魔法を実際に使ったこと、ないんだろ?」

「否定はしませんが、俺は魔法が嫌いなんです。使いたくありません」

 やや強めの口調になってしまった。ふと気づくと葉沢と菱田もこちらを見ており、根岸は気まずくなって軽く咳払いをする。

「俺にかまわないでください」

「そうか、分かった」

 温井はわずかに怪訝そうな顔をしつつも、すぐに葉沢の方へ寄っていった。

 根岸はふうと息をつき、心の中で安堵すると同時に、意に沿わない仕事を強いられていることへの不満がじわじわと募るのを感じた。そもそも希望したのは捜査一課であり、魔法捜査一課ではない。今の状況は苦痛以外の何物でもなかった。

 一方で葉沢は「気の集め方がいまいち安定しないんですよね」と、真面目な顔で先輩たちに助言を求めている。

 菱田と温井があれこれと話し始め、根岸は胸の内でもやもやとしてしまう。自分がこの場にいること自体が場違いな気がしてならない。周囲の魔法使いたちと馴染めないだけでなく、彼らと仲良くしようという気も、今はまったく湧いてこなかった。魔法というものに対して嫌悪感を持つ根岸にとって、彼らとの距離はますます広がるばかりだ。

 受話器を置いた野上は、そんな根岸を気にかけるようにちらちらと見ていた。


 その夜、野上に連れられて魔法捜査一課の面々は吉祥寺きちじょうじへ来ていた。

 駅前の商店街を抜けた先、住宅地へ入ったところで角を一つ曲がる。暗くて細い路地に浮かび上がるのは、店先につるされたランタンの橙色の優しい光だ。

「ほら、ここだ」

 野上が足を止めて、丸みを帯びた青いテント看板を見上げる。書かれているのは「cafe&bar ウミガメの紅茶」という白い文字だった。

 入口は上半分がガラス張りの引き戸になっており、野上は慣れた様子で手をかけた。

「あら、いらっしゃいませ」

 聞こえてきたのは若い女性の、穏やかで耳に心地良い声だ。

「今日は部下を連れてきたよ」

 野上がそう返す間に、根岸たちも店内へ入る。

 八人ほどが座れるカウンターテーブルに、テーブルの二人席が三セットあるだけの狭い店内だった。淡いクリーム色の壁にアンティーク調のフローリング、落ち着いた茶色の什器じゅうきから見て、バーというよりはカフェの雰囲気が強い。

 粗野そやに見える野上の行きつけの店にしてはオシャレで、どうにもちぐはぐな感じがした。

 奥のテーブル席では女性の二人客が雑談をしながら紅茶を飲んでいた。

 カウンターの内側に立っているのは二十代後半と思われる女性が一人だけだ。おそらく彼女が店主なのだろう。

 茶髪を後ろで一つに結った華奢きゃしゃな色白の美人で、にこりと笑った顔は保育士を思わせる。着用したブルーグレーのエプロンには、ポメラニアンの精緻せいち刺繍ししゅうほどこされていた。

 野上はカウンターの一番奥の席に腰かけ、続いて葉沢、菱田、温井、そして最後に根岸が着席した。

「魔法捜査一課でしたっけ? お会いできて嬉しいです。店主の美藤紗千香みどうさちかです」

 彼女が部下たちの顔を見ながら自己紹介をし、根岸たちはそれぞれに名乗り会釈えしゃくを返す。すると機嫌よく野上が告げた。

「今日は俺のおごりだ。何でも頼んでいいぞ」

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